7月28日 (日) 西宮
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 2 0 2 2 0 0 0 6 パ軍 20勝33敗2分 0.377 真田重蔵
0 0 0 0 0 2 0 0 5X 7 巨人 33勝20敗1分 0.623 諏訪裕良 多田文久三
勝利投手 多田文久三 1勝0敗
敗戦投手 真田重蔵 11勝11敗
二塁打 (パ)伊勢川 (巨)多田
三塁打 (パ)喜瀬、白石
勝利打点 なし
猛打賞 (巨)多田文久三 2
巨人がミスに乗じて大逆転
西宮の第2試合は真田重蔵と諏訪裕良の先発で午後3時5分、二出川球審の右手が上がりプレイボール。
パ軍は3回表、先頭の喜瀬正顕が右中間にプロ入り初の長打となる三塁打、真田の三ゴロをサード山川がエラーする間に三走喜瀬が還って1点を先制、トップに返り富松の遊ゴロでランナーが入れ替わり、木暮はストレートの四球、藤井の中前打で一死満塁、森下が押出し四球を選んで2-0とする。
パ軍は5回表、二死後中谷順次が左前打で出塁、白石が右中間にタイムリー三塁打を放ち3-0、伊勢川も左中間にタイムリー二塁打で続いて4-0とリードを広げる。
パ軍は6回表、先頭の富松がライトスタンドに第1号ホームラン、続く木暮もライトスタンドに第2号ホームラン、一二番コンビによる連続ホームランで6-0と大きくリードを広げて試合は決まったかに見えたが・・・。
巨人は6回裏、一死後黒沢が一二塁間内野安打で出塁するとワイルドピッチで二進、中島は四球、多田の中前打で一死満塁、諏訪が押出し四球を選んで1-6、山田潔のニゴロの間に三走中島が還って2-6とする。
4点差に追い上げた巨人は7回からキャッチャー多田がマスクを脱ぎ捨て二番手のマウンドに上がる。多田の登板は昭和17年以来4年ぶり。多田に代わってマスクを被った戸田吉蔵は昭和18年に2試合だけ出場しているがその時はセカンドで、マスクを被るのはこの試合が初めてであり、更にプロではこの試合が戦後唯一の出場となり、翌年国民リーグの大塚アスレチックスに転ずる。
多田は7回からの3イニングを1安打1四球2三振無失点に抑えた。
巨人は9回裏、先頭の山田の当りはニゴロ、これをセカンド喜瀬がエラー、トップに返り坂本茂は四球、宮下信明に代わる代打近藤貞雄が右前打を放って無死満塁と風雲急を告げると、山川の三ゴロをサード中谷が三塁ベースを踏んで一死とする間に三走山田が還って3-6の3点差、川上の二飛を喜瀬が捕球して二死一二塁、黒沢のニゴロで試合終了、と見られたところ喜瀬がエラー、この間に二走近藤が還って4-6の2点差として二死一三塁、中島の右前タイムリーで5-6の1点差としてなおも二死一三塁、ここで多田が右中間に二塁打を放ち三走黒沢が還って6-6の同点、センター富松からの返球が逸れるのを見て三塁に達していた中島がホームに還って巨人が大逆転サヨナラ勝ち。
サヨナラの得点は富松の悪送球の間のもので勝利打点は「なし」。真田の9回の5失点は自責点ゼロであった。
戸田吉蔵はNPBの公式記録でも大正2年生となっていますが、実際は大正12年生です。在原中では浜田義雄(東急)と同級生でした。昭和61年4月17日没、享年62。マル暴組長の飲酒運転による人身事故でした。
返信削除川崎市の渡田新町にあるトピカは戸田が経営していたレストランです。戸田の頭がピカッと光っているから、と長嶋がトピカを命名したそうです。
戸田のほか水野忠彦、渡部弘、今泉勝義といった大戦末期の巨人OBは一つのグループとして末長く交流があったそうです。
大正2年ではさすがに年代が合いませんね。日本プロ野球記録大全集には正しく「大正12.11.1生」と記載されています。
返信削除BISにデータ入力する際の単純ミスが原因でしょう。昭和12年秋の沢村とスタルヒンの勝敗が誤って入力されてしまったことにより今でも公式記録が間違っているのと同じ理由ですね。他にも入力ミスの事例が複数ありますが、あまり突っ込むとタイトルまで間違っていることに言及しなくてはならないのでこの辺でやめておきましょう(笑)。