2020年7月16日木曜日

21年 グレートリングvs中部日本 6回戦


7月25日 (木) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 1 0 2 1 4 グ軍 26勝19敗 0.578 別所昭 
0 0 0 0 0 0 0 1 2 3 中部 17勝25敗2分 0.405 森井茂

勝利投手 別所昭 7勝3敗
敗戦投手 森井茂 8勝8敗

二塁打 (グ)別所 (中)加藤
三塁打 (グ)田川、安井

勝利打点 (グ)安井亀和 4


戦後初のトリプルプレー

 後楽園の第2試合は別所昭と森井茂の先発で午後3時2分、島球審の右手が上がりプレイボール。

 グ軍は初回二死後に田川豊が三塁打を放っただけで、2回~5回は4イニング連続三者凡退。この間の12個のアウトのうち、遊ゴロが5個に三ゴロが1個、この日のグ軍は全員が右打者であり、右に転がしたのは山本一人のニゴロ1個だけと、森井茂の術中にハマった。

 中部は4回裏、一死後杉浦清監督の当りは遊ゴロ、これをショート宮崎仁郎が一塁に悪送球して一死一塁、二死後加藤正二が左中間に二塁打を放ち、一走杉浦は三塁ベースを回ったところでレフト堀井数男からの返球がセカンド安井亀和に送られたのを見てホームに向かうが、安井からの本塁送球にタッチアウト。この場合のスコアは「7-4-2」ではなく、「(7)-4-2」と記載される。これはレフトを起点としたプレーで一旦二塁手に送球されてから本塁に送球されたことを表し、単純な中継プレーではなかったことを表している。

 中部は5回裏、先頭の大沢清が得意の右打ちを見せて右前打で出塁、藤原鉄之助の遊ゴロでランナーが入れ替わり、山本尚敏の左前打で一死一二塁、森井は右飛に倒れるが、石田政良が四球を選んで二死満塁、しかしトップに返り古川清蔵が左飛に倒れて無得点。

 グ軍は6回表、一死後宮崎が三塁線にヒットで出塁、トップに返り河西俊雄の遊ゴロでランナーが入れ替わり二死一塁、安井が右中間に三塁打を放ち1点を先制する。

 グ軍は8回表、二死後河西が左前打から二盗に成功、安井が四球を選んで二死一二塁、ダブルスチールを決めて二死二三塁、田川が左前に2点タイムリーを放ち3-0とリードを広げる。

 中部は8回裏、先頭の石田が四球を選んで出塁、トップに返り古川の三塁内野安打で無死一二塁、杉浦が左前にタイムリーを放ち1-3、小鶴誠は一飛に倒れて一死一二塁、古川が単独三盗を決めて一死一三塁、しかし加藤は三振、スリーストライク目に一走杉浦がディレードスチールを試みるが三走古川がホームに到着する前にタッチアウトとなって追加点はならず。

 グ軍は9回表、一死後別所が中前打で出塁、筒井敬三の三塁線バントが内野安打となって一二塁、阪本政数に代わる代打丸山二三雄の右前打で一死満塁、宮崎の左犠飛で4-1と突き放す。

 中部は最終回、先頭の大沢が四球を選んで出塁、藤原の右前打で無死一二塁、山本に代わる代打西沢道夫が四球を選んで無死満塁、西沢に代えて代走金山次郎を起用、森井に代わる代打服部受弘の投ゴロを別所が併殺を狙って二塁に送球するが悪送球となる間に三走大沢に続いて二走藤原鉄之助もホームに還って3-4、ゲッツーを狙うならホームゲッツーの場面でありここは別所の判断ミス、無死一二塁となって石田の当りはショートライナー、これをショート宮崎が一塁ベースに入っていたセカンド安井に送球して一塁フォースアウト、更に安井が二塁ベースカバーに回った宮崎に送球して二塁もフォースアウトでトリプルプレーとなってゲームセット。

 別所昭は7安打5四球2三振の完投で7勝目をマークする。

 戦後初のトリプルプレーは「6-4A-6B」という珍しい形であった。ショートライナーからの一塁送球を一塁ベースカバーに入っていたセカンド安井が捕球したということは、1点差の無死一二塁の場面でグ軍はバントシフトを取っていたということになる。ショートから一塁送球、更に二塁送球と折り返してトリプルプレーが完成したということは、一塁走者と二塁走者がスタートを切っていたと考えられる。九番石田政良は戦前からの大ベテランであり、バントの構えからバスターエンドランで打っていったがショート正面のライナーになってしまったというところか。一二塁でのバントシフトではショートは三塁ベースカバーを意識するので宮崎は二塁ベースから離れた定位置で捕球し、まず一塁に送球して一走服部を刺してから、その間に二塁ベースカバーに回っても二走金山の帰塁に間に合うと判断した。この場面は二塁に走者を残しておきたくない1点差の場面であり、二走金山を刺すことを優先するのであれば自ら二塁ベースに駆け込んで金山をフォースアウトにしてから一塁に送球してトリプルプレーを狙うという選択がセオリーであるが、それよりも一塁送球を優先させた方がトリプルを取れる確率が高いと判断したギャンブルプレーであり、宮崎はそのバクチに勝ったのである。

 なお、この当時「バスター」という用語はまだ使われていない。「バスター」は「和製英語」であり、日本で使われるようになるのは巨人がベロビーチキャンプで大リーグのプレーを参考にして取り入れて、牧野コーチが多用するようになってからのことである。使われるようになった時期はかなり確かな確率で特定できる。昭和48年の甲子園で江川対策として使われたバントの構えからのヒッティングは「プッシュ打法」と呼ばれており、この時点ではまだ「バスター」が一般的ではなかった。巨人がベロビーチでキャンプを行うのは昭和40年代初頭からであり、牧野コーチがアル・キャンパニスの「ドジャースの戦法」を研究してバスターを取り入れ、昭和40年代末頃から一般的に「バスター」という用語が使われるようになった。私が大学時代の昭和50年代初頭にはグラウンドで「バスター」という言葉を使っていた。この時はまだ「バスター」という用語が使われ始めてから間もない時期であった。これは当ブログの記憶に頼った推論だけではなく、「アメリカ野球学会」東京支部の会合で、当事者により当時の経緯が詳しく議論されたことがあるので、ほぼ間違いのない事実である。

*戦後初のトリプルプレー。九番石田政良の「L6」ショートライナーで一死、「6-4A」ショート宮崎仁郎から一塁ベースカバーに入ったセカンド安井亀和に送球されて一塁フォースアウトで二死、「4-6B」安井から二塁ベースカバーに入った宮崎に折り返し送球されて二塁フォースアウトで「Tri」トリプルプレー。

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