24,634人の観衆を集めた後楽園では第1試合で最下位ながらも8球団随一の重量打線を誇る中部打線が爆発、セ軍も負けたとはいえ飯島と大下がホームランを放つ健闘。伝統の一戦となった第2試合はダイナマイト打線が7連続安打と火を噴き、一時は8点差を付けられた巨人も3点差まで追い詰める健闘、更に若林が電撃復帰。
昭和21年9月22日は、戦後のプロ野球人気の高まりを伝える象徴として記憶されるべきである。
終戦から1年が経過して世情も徐々に落ち着きを取り戻してきたことは観客数の推移が如実に物語っている。
*月別平均観客数
5月:5,533人
6月:5,849人
7月:7,555人
8月:7,803人
9月:8,410人
(1試合制の日は観客数が激減するので、いずれも1試合制を除いた月別平均観客数。なお、第2試合が雨天中止で結果として1試合となった日の観客数はデータに含む。)
昭和14年に700万人に乗せた東京の人口は昭和19年の727万人から昭和20年には348万人に激減した。それが昭和21年には418万、22年には500万、23年には541万、24年には595万と急回復していく。
この日後楽園で観戦した24,634人は、家に帰って大下のホームランやダイナマイト打線の迫力を家族や近隣の人たちに語り伝え、それを聞いた人たちが後楽園に足を運ぶ。こうしてプロ野球が戦後復興の象徴となっていくのである。当ブログはその過程を、客観的事実に基づいて伝えていく。
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