1 0 0 1 0 0 0 0 1 3 金星 2勝0敗 重松通雄
0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 中日 1勝1敗 藤本英雄
勝利投手 重松通雄 1勝0敗
敗戦投手 藤本英雄 0勝1敗
二塁打 (中)杉浦
本塁打 (金)坪内道則 1号、西沢道夫 1号
勝利打点(金)西沢道夫 1
猛打賞 (金)清原初男 1
重松通雄、4年ぶりの勝利
開幕週2日目、後楽園の第1試合は重松通雄と藤本英雄の先発で午後1時1分、国友球審の右手が上がりプレイボール。
金星は初回、二死後坪内道則監督がレフトスタンドに先制ホームランを叩き込んで1-0とリードする。
中日は3回裏、先頭の藤本が三遊間にヒットを放つと二盗に成功、藤原鉄之助の右前打で無死一三塁、トップに返り岩本章の三塁内野安打で三走藤本は動けず無死満塁、金山次郎の投ゴロで藤本は本封、一死満塁から古川清蔵の左犠飛で1-1の同点とする。
金星は4回表、二死後西沢道夫がレフトスタンドに勝越しのホームランを叩き込んで2-1とリードする。
金星は9回表、一死後坪内が四球を選んで出塁、西沢の左前打で一二塁、清原初男が中前にタイムリーを放ち3-1とリードを広げる。
中日は最終回、金山の代打大沢清が四球を選ぶと代走に山本尚敏を起用、古川の三ゴロでランナーが入れ替わり、小鶴誠は右飛に倒れてツーアウト、杉浦清監督が四球を選んで二死一二塁、加藤正二に変わる代打清水秀雄が四球を選んで二死満塁、清水の代走に杉江文二を起用、杉江は4年ぶりの出場、しかし三村勲に代わる代打笠石徳五郎は三邪飛に倒れてゲームセット。
重松通雄は6安打3四球1三振の完投で戦後初勝利を飾る。
昭和11年のプロ野球初年度から活躍を続けてきた重松は2度の応召を挟んで4年ぶりのピッチングで完投勝利を飾った。
重松通雄は「下手投げの元祖」とも言われている。昭和11年のプロ野球元年にアンダースローからの投球を見せていた重松がプロ野球における「下手投げの元祖」であることに異論はないが、当ブログの調べでは「下手投げの元祖」は劉瀬章である。
劉瀬章のプロ入りは昭和13年なのでプロでは重松の後輩となるが、生年は重松の1916年に対して1911年生まれであることから、劉瀬章が学生野球時代から下手投げで投げていたことが確認できれば劉瀬章こそが「下手投げの元祖」ということになる。
神奈川県高等学校六十年史「球音」(1978年7月1日発行、神奈川県高等学校野球聯盟)の48ページには昭和5年の第16回神奈川大会についての戦評が書かれており、優勝候補本命は本牧中学であり「アンダースロー、速球で京浜地区にその名の高い劉投手」との記述が認められる。
すなわち、本牧中学時代の劉瀬章のアンダーハンドからの速球は神奈川球界に鳴り響いていたのであり、この記述が劉瀬章を「下手投げの元祖」とする根拠である。
また、君島一郎著「日本野球創世記」には、「青井鉞男とその時代」の項で、大正7年に青井が一高グラウンドを訪れた際に、当時のエース内村祐之が青井に「アップカーブを投げてみろ」と言われてアンダースローで浮き上がるカーブを投げたと書かれており、大正時代にはアンダースローが確立されていたことが分かる。内村は普段は上手からの速球派であったことから「下手投げの元祖」ではない。
したがって、日本球界に於ける「下手投げの元祖」は、確認できる限りにおいては劉瀬章であるものの、「不明」が正解であろう。
劉瀬章の投球フォームは下手投げで間違いありませんが、日本の球史始まって以来の本格的な下手投げ投手は、大正時代に「怪投手菅瀬」といわれた慶大の菅瀬一馬ではないでしょうか。
返信削除現役時代には三宅大輔が「下手投で最も成功した投手」と評していますし、菅瀬自身も下手投げに関する論文を書いています。
↓日本に於る下手投げの歴史と技術の発展について書かれた興味深い論文です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjshjb/32/0/32_3/_pdf
返信は長くなりますので別項に記載します。
削除