2020年12月28日月曜日

公式記録員

  戦前唯一の公式資料である「連盟公報」(第9号より「連盟ニュース」に改題)によると、昭和11年の公式記録員は同盟通信社の秋山慶幸、秋山與志己、読売新聞社の宇野庄治、小島六郎の4氏に「委嘱」されていた。

 そして、昭和12年3月25日発行「連盟ニュース13号」に、3月5、6、16、17の4日間に東京銀座連盟事務局で開催された理事会で、「公式記録員の決定」の項に、「公式記録員任命」として、「広瀬謙三(元時事新報記者)」が連盟公式記録員に決定したと書かれている。

 「Wikipedia」などに「1936年(昭和11年)に職業野球が誕生すると同時に連盟から公式記録員としての依頼を受け就任」などと書かれているので世の中には誤って伝わっているが、広瀬謙三が正式に公式記録員に就任したのは昭和12年のシーズンからである。同時に、同盟通信社運動部も公式記録員として「委嘱」されており、関東の試合は広瀬、関西の試合は同盟の記者がスコアを付けることとなった。

 「連盟ニュース」は昭和14年で終了しているので、その後の公式記録員の人事は判然としないが、昭和17年から山内以九士が公式記録員として採用されて関西の試合のスコアを付けていることは確認できている。

 公式の人事記録から分かることは以上であるが、スコアカードの記載から読み取れる「推測」を以下に記する。

 昭和15年のスコアから、関東の試合にはカウントも記載され、投球数も記録されている。関東の公式記録員の人事に、非公式ながら何かの動きがあったことが「推測」されるのである。

 昭和17年に山内以九士が公式記録員に採用された事実と併せて推測すると、昭和15年から山内が広瀬の助手を務めていた可能性が考えられる。その働きぶりが認められて、昭和17年から正式に公式記録員として採用され、当ブログが解読しているスコアカードを残した可能性が考えられるのである。(文中敬称略)


0 件のコメント:

コメントを投稿