2025年12月25日木曜日
22年 南海vs阪急 10回戦
2025年12月22日月曜日
つるたかずんど
先日、BSNHKで1969年紅白歌合戦のノーカット版が放映された。
この年の目玉は、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」と弘田三枝子の「人形の家」だった。
カルメン・マキの「時には母のない子のように」も圧巻である。「Wikipedia」には「ステージに裸足で登場して非難を浴びた」と書かれているが、画像を確認すると靴下を履いている。
これだけだと単なる芸能ネタで終わってしまうので本題に入ろう。
この年の審査員の一人には現在当ブログで活躍している山本一人が選ばれていた。当時は「鶴岡一人」である。ところが、司会の宮田輝アナは、冒頭の紹介で「つるたかずんど」さんと呼んでしまった。
紅白歌合戦史上有名な言い間違い事件と言えば、加山雄三がやらかした「仮面ライダー」が圧倒的知名度を誇っているが、「つるたかずんど」も事件としてとらえて良いのではないか。
なお、「一人」の呼び方は「かずと」と思われがちであるが、当時は「かずんど」と呼ばれることも多く、こちらは問題ない。
2025年12月21日日曜日
22年 大阪vs南海 9回戦
2025年12月14日日曜日
22年 中日vs巨人 9回戦
2025年12月13日土曜日
続・代走の代走
昭和22年8月3日の太陽vs阪急11回戦において、太陽の藤本定義監督が8月1日の南海戦に続いて「代走の代走」を起用したことをお伝えしました。
先日お伝えした3事例に加えて4事例目が判明しましたが、更にもう一つ「代走の代走」が起用された事例がありました。
昭和15年10月7日、西宮球場で行われた阪急vs金鯱11回戦において、金鯱の石本秀一監督が「代走の代走」を起用していました。詳しくは2013年4月27日付け記事をご参照ください。
当ブログも更新が5,000回を超え、筆者もいつどこに何を書いたかを忘れています。当ブログは検索機能が充実しており、左上の検索用タブに検索ワードを入力すると過去記事を検索することができます。「代走の代走」を入力してヒットしました。自分で書いておいて自分で単語検索するのもおかしな話ですが、15年間続けていますので悪しからず。
さて、昭和15年10月7日の阪急vs金鯱11回戦、0対2と2点のビハインドで迎えた9回裏金鯱の攻撃、先頭のピッチャー中山正嘉がレフト線ヒットで出塁すると、石本秀一監督は代走に山本次郎を起用、一死後飯塚達雄に代わる代打古谷倉之助が中前打で一死一二塁、トップに返り五味芳夫が四球を選んで一死満塁となります。山本が二塁に進んだときか三塁に進んだときかは分かりませんが、石本監督は代走山本に代えて「代走の代走」として新井一を起用、二死後農人渉が左前に同点の2点タイムリーを放って追い付き、その後2四球を得てサヨナラ勝ちしました。
石本秀一監督も藤本定義監督と並んで「策士」として知られています。矢張り、「代走の代走」は深い作戦であることは間違いないでしょう。
なお、新井一はプロ野球に在籍したのはこの年だけ(戦後は国民野球連盟の大塚アスレチックスに在籍した模様)で、通算成績は17打数2安打1得点1打点。この試合で「代走の代走」に起用されてホームに還ったのがプロ野球で記録した唯一の得点でした。
当ブログは今後も、世界で唯一の「代走の代走」研究機関として邁進していく所存です(笑)。