2018年4月25日水曜日

鉄人


 衣笠さんの訃報が伝わっています(以下、敬称略)。

 このところ毎日10時過ぎまで残業がが続いていますので、衣笠さんの訃報を、今、知りました。

 衣笠とは長い付き合いでしたね(もちろん面識はありませんが)。

 私が広島ファンになったのは西鉄が太平洋に変わった1973年のことです。

 まだ弱小チームではありましたが、すでに主力打者であった衣笠については、広島ファンになる以前から注視していました。

 2215試合連続出場のピンチについては、1979年に西本から死球を受けた時のことが有名です。翌日、代打で出てきた試合はリアルタイムでテレビで見ていましたが、江川の快速球に対して平気な顔でフルスウィングして三球三振しました。圧巻のシーンが目に焼き付いています。

 本日は、それ以上の連続出場記録が途切れるピンチについて書かせていただきましょう。ほとんどの方が知らないエピソードだと思います(笑)。

 1973年のことですから、世間一般では衣笠の連続試合出場記録などは全く話題になっていない頃の物語です。まだ500試合くらいの時ですからね。

 この年の衣笠は130試合フル出場しましたが、打率は2割0分7厘と極度の不振に陥りました。しかも、平安高校の後輩であり、同じ一塁手の渋谷通が台頭してきたのです。シーズン終盤のことですが、衣笠はヒックスや渋谷の控えに回され、渋谷が一塁手としてスタメン出場するようになりました。シーズン最終戦であったと記憶していますが、渋谷が4打数3安打を記録して、衣笠が最終回の守備だけに就いて連続試合出場記録を継続したのです。あくまでも私の記憶ベースですから、記憶違いにより間違っている可能性は否定しませんが、記憶力には自信があるので多分正しいと思います。

 赤ヘル旋風が吹き荒れた1975年オールスターゲーム、山本浩二と衣笠がホームランを打ちまくったシーンを、リアルタイムでラジオで聞いていました。新しい時代がやって来る!と確信しましたね。 


 

2 件のコメント:

  1. 連続出場記録の始まりは途中交代によるものでしたね。昭和45年10月19日の巨人26回戦で、先発した興津立雄に代わって一塁を守っています。
    この興津とのエピソードが個人的になかなかジンとくるものがありました。たしか近藤唯之の著書に記されていたと記憶していますのでホントかドウかはわかりませんが......。
    衣笠が一軍定着して間もない頃のエピソードで、夜な夜な英語の勉強している衣笠を見かねた興津が理由を問うと、衣笠は「アメリカにいる、生まれて一度も見たことのない父親に会うためです」と答え、すると興津は「それなら野球で大成すれば、お父さんのほうから会いに来てくれるさ」と返し、ハッと気づかされた衣笠はそれ以降ペンからバットに持ち替えて精進した...というものです。
    衣笠と同時期にプレーした相川進(中日、近鉄)や菱川章(中日、日拓)もそうでしたね。

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    1. ヤクルトの益川も。
      衣笠はその後、右打ちをマスターして二番も打つようになります。私は、これが生き延びた最大の要因であったと考えています。

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