昭和20年8月2日、アメリカ空軍による空襲が水戸市を襲い、水戸市内の多くが焼け野原となったが、奇跡的に水戸商業は焼け残った。
同年10月、水戸中学、水戸商業の野球部員が伝統ある対抗試合の復活を相談して、二連隊あとの広場で軟式ボールで実施した。うわさを聞いたOB、ファンが百数十人観戦した。
昭和20年11月の初め、長野市内の中等学校で対抗試合が行われ、優勝校に賞状一枚が授与された。長野では終戦直後から各校野球部員が野球部復活を叫び、古い用具を持ち寄って練習を開始していたのである。
昭和20年11月、京都市内の中等学校9校が集まり同志社中学グラウンドで野球大会が行われ、京都二中が優勝した。京都市河原町三条南の「エビスヤ運動具店」で野球道具を調達したのである。この大会には近隣の野球ファンが多数詰めかけ、同志社中学グラウンドのセンター後方にあった「土俵」の屋根にまで見物人が上がり込み、とうとう屋根もろとも土俵が倒れるという一幕も見られた。
昭和20年11月17日、愛媛県体育会の肝いりで、松山市内中等学校軟式野球大会が、松山中学校庭で、松山中学、北予中学、松山商業、松山工業、新田中学の五校により開催された。硬式ボールが手に入らず、軟式ボールで、古い道具の寄せ集めであったが、5年ぶりの野球大会ということで、校庭にあふれる観衆は、久しぶりに展開された選手たちの妙技に、終日拍手歓声鳴り止まず、野球松山の伝統を示す喜ばしい記念行事となった。
*以上、「日本高校野球連盟三十年史」より
昭和51年12月に刊行された「日本高校野球連盟三十年史」には、各都道府県野球連盟の「連盟発足したころ」、「連盟の歩み」、「主な出来ごとについて」が記述されている。各都道府県の野球連盟は昭和21年に結成されていることから、昭和20年秋の野球についての記述が認められるのは上記の4府県だけであるが、各都道府県で終戦直後から「野球復活」の胎動が見られたことは間違いない。
もし私が同時代に生きていたら、8月16日には押し入れの奥に隠しておいたバットとボールとグローブを持ち出して、家の前の広場(現・市川市国分尼寺跡公園)で野球をやっていました。これだけは断言できる。
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