0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 阪急 38勝34敗 0.528 溝部武夫
0
0 0 0 0 0 0 0 0 1X 1 ゴ軍 24勝38敗1分 0.387 江田孝
勝利投手 江田孝 2勝8敗
敗戦投手 溝部武夫 5勝1敗
三塁打 (急)野口二郎
勝利打点 (ゴ)坪内道則 4
猛打賞 (急)野口二郎 2
1試合最多補殺記録
西宮の第1試合は溝部武夫と江田孝の先発で午後零時58分、池田球審の右手が上がりプレイボール。
阪急は2回表、二死一二塁のチャンスを作るが田中幸男は遊ゴロに倒れて無得点。
阪急は3回表、先頭の溝部がストレートの四球で出塁、しかし江田孝の牽制に釣り出されて「1-3-6」でタッチアウト、「盗塁死」が記録されているのでディレード気味にスタートを切った可能性がある。直後に山田伝が左前打から二盗に成功して一死二塁とするが、坂井豊司は左飛、青田は遊ゴロに倒れて無得点。
阪急は4回表、先頭の野口二郎がストレートの四球で出塁、しかし野口明のニゴロが「4-6-3」と転送されてダブルプレー、直後に上田が右前打から二盗に成功、キャッチャー辻功の二塁送球が悪送球となって上田は三塁に進むが、日比野は遊ゴロに倒れて無得点。
阪急は6回、7回にも走者を出すが何れも二死からで無得点、8回は野口二郎が三塁打を放つがこれも二死からで続く野口明は三振。
阪急先発の溝部武夫は、味方のちぐはぐな攻撃にもめげず好投を続ける。ヒットを許したのは3回と4回の1本ずつのみ、6回は先頭の辻をストレートの四球で歩かせるが続く中村信一を捕ゴロ併殺に打ち取り、7回も一死後坪内を四球で歩かせるが坪内のディレードスチールにも落ち着いて対処して「1-3-6」でタッチアウト。
試合は9回まで両軍無得点のまま進み、ゴ軍は9回裏、一死後中村がストレートの四球で出塁、大友は進塁打を試みて右方向に打つがフライとなって右飛に倒れ、酒沢がストレートの四球を選んで二死一二塁、ここで四番坪内が試合を決める一打を左前に打って中村信一がサヨナラのホームを踏む。
江田孝は6安打4四球1三振で戦後初完封、2勝目をあげる。
この試合で阪急守備陣は23補殺、ゴ軍守備陣は19補殺、合計42補殺を記録した。阪急の三塁手坂井豊司は12個の三ゴロを捌いて12補殺を記録、一塁手の野口明は17刺殺を記録した。
溝部武夫は下手からの落ちる球を武器としておりゴロアウトが多い。江田孝は「Wikipedia」によると「オーバースローからシュートやシンカーを武器とした」とされており、両投手のピッチングスタイルがこの試合の記録を生んだのである。
スコアカードの「雑記」欄には阪急の23補殺について「タイ」と書かれているのでこの記録が昭和21年時点で1試合最多補殺タイ記録である可能性があるが、プロ野球史上「1試合最多補殺」の記録は判然としない。しかしながら「1試合最少補殺」の試合は明確である。
1983年5月25日、中日の高橋三千丈が阪神相手に完封勝利、この試合で中日守備陣の補殺は「ゼロ」であり、これがプロ野球史上「1試合最少補殺」の記録となっている。阪神の27アウトは「内野飛球(邪飛を含む)が11、外野飛球が12、残りの4つは三振。ゴロのアウトが皆無の補殺ゼロ」であった。三振でもスリーストライク目を捕手が正規捕球できず、打者が一塁に走って「2-3」でアウトの場合は記録こそ「三振」ではあるが捕手に補殺が記録される。この日のスタメンキャッチャーはこの年広島から移籍してきた守備の巧い水沼であったこともこの記録が生まれた要因となった。前年MVPのレギュラーキャッチャー中尾はこの年は怪我で欠場も目立ったのである。
高橋三千丈は静岡商業時代から剛球投手として知られたが肩が強過ぎて球が高めに浮くという欠点を持っていたためコントロール難が嫌気されてドラフトされず、明大でコントロールを磨いて1979年中日に入団、1年目から活躍するが右腕血行障害で投げられなくなり1983年に3年ぶり復帰、この試合がキャリアで唯一の完封勝利だったのである。持ち味の高めに浮く球ではなく、130キロ台に落ちた球速に阪神打線が振り回した結果フライアウトだらけになったと言われている。
*明大時代は鹿取との二本柱でリーグ戦優勝に貢献して4年時は主将。高橋三千丈は島岡御大に「明大野球部史上、主将を務めた中で高田繁と並ぶほどの人物」と絶賛されたという。
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