昭和20年9月30日午前10時、和泉グラウンドにおいて明大野球部は戦後最初の練習を開始した。
それに先立って、神田校舎の掲示板に「野球のできる者は集まれ」というビラが張り出された。起案者は岡田源三郎であったと推測されている。そして9月中旬過ぎに、和泉のグラウンドで入部テストが行われた。明大野球部・別府隆彦の日記には、9月24日の項に「野球か、勉強か。家の者は猛烈に反対する」と記されており、入部テストはその2、3日前に行われたと推測される。テストに合格した別府は、9月29日の日記に「ともかく野球部に入ることにした。それがどんな結果をもたらすか・・・」と記し、教師にしたかった親を説得して野球部に入部した。この入部テストの審査委員長は岡田源三郎であったことが確認されており、岡田の指導により明大野球部は復活する。まだ大下弘は復学していない。
昭和20年11月4日午前10時、ステートサイドパーク(神宮球場)において明大OBチームである「駿台倶楽部」と「現役チーム」による試合が行われた。
駿台 13-8 現役 (一部の新聞には12対8との記録も残されている)
OBチームの先発は「大正時代の名投手」として知られる湯浅禎夫でリリーフは「八十川ボーク事件」で知られる八十川胖、現役チームの先発は「復学」してきた大下弘であった。現役チームで参加した小川善治の手記によると、「この試合で大下がワンバウンドで外野席に打ち込んだ」とのこと。この一打を見た明大OBの横沢三郎が大下をセネタースに引っ張ったことから、大下が明大野球部員として試合をするのはこの試合が最後となったのである。
昭和20年12月9日、現役・OB混成チームの駿台倶楽部が早稲田OBチーム稲門倶楽部と対戦し、6対4で駿台倶楽部が勝利を飾った。この試合が明大野球部の戦後最初の対外試合であった。試合のメンバー表は当時の「体育週報」に掲載されており、駿台の投手は現役の小川善治(後に大映スターズに入団して二桁勝利3回を記録)であり、前述のとおり大下はプロ入りしてこの試合には出場していない。稲門のメンバーは大半が早稲田OBであったが、駿台は大半を現役が占めていた。早稲田大学野球部の復活が遅れていたことがうかがわれる。
稲門vs駿台
12月9日 (日) ステートサイドパーク
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 2 2 0 0 0 0 0 4 稲門 1勝0敗 高橋 若原
0 0 0 0 2 4 0 0 0 6 駿台 0勝1敗 小川善治 江原
勝利投手 小川善治
敗戦投手 高橋
(責任投手は 当ブログの推測)
猛打賞 辻井(稲門)3安打
*参照「明治大学野球部史」、「体育週報」。
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