2013年7月18日木曜日

衝撃の告白 !?



 今月のスポニチの「我が道」は新浦壽夫です。「我が道」は1カ月かけて半生を振り返るもので、日本経済新聞の「私の履歴書」のスポニチ版です。


 本日は78年に新浦が2年連続最優秀防御率を獲得した時の話でした。このオフに世上を騒がせた「江川問題」が起きます。江川の交換要員として小林が阪神に移籍したことはよく知られているところですが、本日新浦が衝撃の告白をしています。


 「実はな。江川の交換要員は最初、おまえだったらしいぞ。それが小林に代わったんだ。」と聞かされたとのことです。但し「だが、確認したことはない。これからもするつもりはない。」とのことです。その割りには「江川の交換要員だった!?」と大きく見出しに出ていますが(笑)。


 東尾の「我が道」でも加藤初が巨人に移籍する時、最初は東尾が移籍する話が進んでいたと書かれています。


 もっと凄い「衝撃の告白!?」と言えば、川崎徳次著「戦争と野球」(ベースボール・マガジン社)に書かれているエピソードでしょう。昭和31年パ・リーグ公式戦の最終日時点で、豊田が3割2分1厘5毛、中西は3割2分4厘6毛。中西は本塁打と打点の二冠を確定しており、最終戦で豊田の打率を抜けば“三冠王”である。世上では三原監督が両人を休ませて豊田にタイトルを取らせたと伝えられているが、川崎徳次は「藤本哲男球団課長(当時)が三原監督の伝言を持ってかけつけてきた。三日後に日本シリーズを控えた優勝監督は忙しいようで『ラジオ出演や、打ち合わせなどで試合開始までに行けそうにないから(川崎に)よろしくやっといてくれと伝えてほしい』とのことであった。私はとっさに『ほかに指示はないかね』ときくと『何もない』という。『中西と豊田のことはどうしろといっていなかったかね』ときくと、チームのことは知り尽くしている藤本課長は、少々困惑した顔で『いえ、なにも・・・』といったきり沈黙してしまった。」
 川崎はふたりを呼んだという。
 川崎「どうするかい。最後までやるか。」
 中西・豊田「やってもいいですよ」
 川崎「どうする?やめるか」
 中西・豊田「どっちでもいいですよ」
 「しかしどちらかが『絶対、やる』と言えば、即座に『オレもやる』と応じそうな気迫は十分で、一触即発というか、目に見えない火花がバチバチ飛んでいる。」「二人とも一歩も引かない感じで『こりゃまずい』と直感した。」「私が決心しなければならない。『ふたりとも、きょうの試合には出るな。メンバーからはずす。いいな。』」



 「このことは巷間、三原監督が、両者が傷つくことを恐れ、中西を説得しての処置だったとされているが、なにを隠そう事実は以上のとおりである。」「この事実を、私はこれまでごく少数の人に語ったことはあるが、公表したことはなかった。あえていま、わが身の恥を多くの人に白状することによって、悔恨を少しでも軽くしたかったのである。中西、豊田よ、お許しあれ。」と書いています。


 川崎徳次著「戦争と野球」の第1版第1刷発行は1997年8月20日です。三原脩が亡くなったのは1984年の事であり、川崎徳次も2006年に亡くなっていますので真相は藪の中です。





          *本日スポニチ誌上にて「衝撃の告白」をした新浦の直筆サインカード。












*過日スポニチ誌上にて「衝撃の告白」をした東尾の直筆サインカード。貴重な「ライオンズ メモリアル」です。











*三原監督が大洋に移籍した昭和35年又は36年の川崎徳次監督時代の西鉄ライオンズ サイン色紙。













          *真ん中が川崎徳次監督、右隣が豊田泰光。その右は高倉照幸です。











                   *左が中西太、右は畑隆幸です。










 

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