ヤフオクで、昭和10年アメリカ遠征時の秩父丸船上での直筆サイン集合写真が出品されて80万円で落札されたようです。
写真自体は貴重な資料であり、ほとんどのサインが本人直筆だと思います。田部武雄と畑福俊英の直筆サインは特に貴重なものですが、肝心の沢村のサインは本人直筆とは思えません。スタルヒンもちょっと怪しいですね。他の選手は本人直筆と断定できると思いますが。
ヤフオクで、昭和10年アメリカ遠征時の秩父丸船上での直筆サイン集合写真が出品されて80万円で落札されたようです。
写真自体は貴重な資料であり、ほとんどのサインが本人直筆だと思います。田部武雄と畑福俊英の直筆サインは特に貴重なものですが、肝心の沢村のサインは本人直筆とは思えません。スタルヒンもちょっと怪しいですね。他の選手は本人直筆と断定できると思いますが。
昭和21年8月20日、後楽園球場で行われた第2試合セネタースvsタイガース戦、2回表セ軍の攻撃で、タ軍守備陣は7個の補殺を記録した。
この回先頭の白木義一郎が放った左中間を抜く当りをレフト金田正泰が中継に入ったショート長谷川善三に送球、長谷川は二塁ベースカバーのセカンド本堂保次に送球、白木は二塁をオーバーランしてタイミングはアウトであったが、本堂が落球して本堂にエラーが記録された。
無死二塁から続く長持栄吉の放ったショートゴロに二走白木がスタートを切り、二三塁間に挟まれて挟殺プレーとなり、「6-5-4-6」と転送されてタッチアウト、ここでショート、サード、セカンドに1個ずつの補殺が記録された。
更に、打者走者の長持が一塁ベースを大きく回り、それを見たショート長谷川がファーストの渡辺誠太郎に送球、長持が一二塁間に挟まれて挟殺プレーとなり、「6-3-4」と転送されてショートとファーストに1個ずつ補殺が記録された。
この2つの挟殺プレイで合計5個の補殺が記録されたが、その前の本堂のエラーにより白木が二塁セーフとなったプレーで、レフトの金田と中継に入った長谷川にも補殺が記録されるのである。
「公認野球規則」9.10(a)(1)には、「あるプレイでアウトが成立した場合、または失策がなければアウトにできたと思われる場合に、そのアウトが成立するまでに、またはその失策が生じるまでに、送球したり、打球あるいは送球をデフレクトした各野手に補殺を記録する」と規定されている。
私は55年ほど野球を見てきていますが、本堂の二塁エラーで刺殺が無い場合でもレフトとショートに補殺が記録されることを知りませんでした。
多くの方が同様ではないかと思うのですが恥じることはない。2013年4月29日、ヤンキースのライトを守っていたイチローが一死三塁の場面でライトフライを捕球してバックホーム、タッチアップからスタートした三走エンカーナシオンはアウトのタイミングであったが、キャッチャースチュワートが落球してセーフ。
この際に補殺が記録されたと聞かされたイチローは「珍しいですね。初めてだね。ということは、アシスト(補殺)が付いたということですか?」と聞き返したらしい。日刊スポーツのネット記事に書かれているので本当でしょう。
どうやらイチローも、この際に補殺が記録されることを知らなかったようなので、素人の我々が知らなくても恥じることはない(笑)。
なお、2013年の時点では公認野球規則10.10が補殺に関する規程となっていました。現在は改定されて9.10となっています。
8月20日 (火) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計2021年全日本卓球選手権女子決勝は「史上最高の名勝負」となることが分かっていましたので、試合開始から石川佳純の優勝インタビューまで全て録画していました。予想どおりフルセットの第7ゲームも9-9までもつれ込む熱戦を石川佳純が制しました。
最初は「伊藤選手」でしたが、2度目は「美誠、あっ」と言いかけて「伊藤選手」と言い換えましたね。普段は「美誠ちゃん」と呼んでいるのでしょうが、公式インタビューでは「伊藤選手」とリスペクトする石川佳純の姿勢に感動させられました。
当ブログでは、「野球人」に関しては、プロ野球選手から少年野球プレイヤーに至るまで例外なく「呼び捨て」とさせていただいております。「ベースボールプレイヤー」に対するリスペクトの気持ちを、当ブログは「呼び捨て」として表現させていただいております。一部、個人的に関係する方については「敬称付き」で表記している例外もありますが・・・。
この考えは、伊達正男著「私の昭和野球史 戦争と野球のはざまから」も参考にさせていただいております。巻末の言:「文中敬称は、早大野球部以外の方には〇〇君、または〇〇さんと呼ばせて頂きました。早大野球部では、一年どころか、一ヶ月先に入部した人でも、先輩・後輩の序列が厳格についていまして、だれだれさんと呼んでいました。しかし同僚・後輩に対しては呼び捨てにするというのが慣例となっていますので、それに従いました。ご諒承をお願いいたします。伊達」
慶應体育会出身の当ブログも、早大野球部の伝統を参照させていただいております。やっぱり「ベースボールプレイヤー」には、「呼び捨て」が似合う。「ベーブ・ルース氏」はないでしょ(笑)。
猛打賞 (巨)川上哲治 2、黒沢俊夫(4安打)4
両軍8併殺のタイ記録
第17節最終日、後楽園の第1試合は中尾輝三と井筒研一の先発で午後零時33分、桝球審の右手が上がりプレイボール。
巨人は前日1回3分の0で4四球降板の中尾を再度先発に起用した。
巨人は初回、二死後千葉がレフトスタンドに先制ホームランを叩き込んで1-0とする。
パ軍は1回裏、先頭の白石がライト線にヒット、一死後藤井のニゴロが「4-6-3」と渡ってダブルプレー。
パ軍は2回裏、一死後木暮が四球を選んで出塁、しかし伊勢川の遊ゴロが「6-4-3」と渡って2個目のダブルプレー。
巨人は3回表、先頭の九番呉新亨が左前打で出塁、トップに返り山田潔がレフト線にタイムリー二塁打を放ち2-0、山川の投ゴロの間に山田は三進、千葉の右犠飛で3-0、川上が右中間に二塁打を放って二死二塁、黒沢の中前タイムリーで4-0、中島の中前打で二死一二塁、多田が右中間に2点タイムリー三塁打を放ち6-0、中尾の中前タイムリーで7-0と大きくリードする。
巨人は4回表、先頭の山田が中前打で出塁、山川喜作の遊ゴロでランナーが入れ替わり、千葉のニゴロが進塁打となって二死二塁、川上の右前タイムリーで8-0とする。
パ軍は4回裏、一死後藤井が右前打で出塁、しかし森下のニゴロが「4-6-3」と渡って3個目のダブルプレー。
パ軍は6回裏、一死後井筒が四球を選んで出塁、トップに返り白石は三振、スタートを切っていた井筒もキャッチャー多田からの送球に刺されて盗塁失敗で三振ゲッツー、これで4個目の併殺。
巨人は7回表、先頭の多田が四球を選んで出塁、中尾は三振に倒れるが、呉新亨が左前打を放って一死一二塁、しかしトップに返り山田の遊ゴロが「6-4-3」と渡ってダブルプレー。
巨人は8回表、先頭の山川が右前打で出塁、千葉は遊飛に倒れるが、川上の中前打で一死一三塁、黒沢の右前タイムリーで9-0、一死一二塁から中島の三ゴロが「5-4-3」と渡って2個目のダブルプレー。
パ軍は8回裏、先頭の佐竹一雄がストレートの四球で出塁、一死後平野徳松の投ゴロが「1-6-3」と渡って5個目のダブルプレー。
パ軍は9回裏、一死後白石が中前打で出塁、しかし富松のファーストライナーに白石が飛び出しており、川上が一塁ベースを踏んで「L3A」で6個目の併殺を記録した。
中尾輝三は6安打3四球3三振で今季初完封、6勝目をマークする。
千葉の右犠飛は今季7個目の犠牲フライで、現在犠飛数ではトップである。打つだけの川上と比べて、千葉が実戦的なプレイヤーであったことが、こういう数字に表れている。
実況のとおり巨人守備陣が6個の併殺を完成させた。「雑記」欄には「ジャイアンツの6併殺はタイ。合計8併殺もタイ。」と書かれている。
現在残されいる公式記録は2リーグ分裂後だけであり、1試合最多併殺記録「6個」は3回記録されている。すなわち、1970年4月30日阪急(対近鉄戦)、1995年5月17日巨人(対横浜戦)、1996年8月18日横浜(対広島戦)の3回である。
昭和21年8月20日の段階で認識されていた「1試合最多併殺6個」の記録とは、昭和15年11月6日に阪急が対巨人戦で記録したもの(2013年6月23日付けブログ「15年 阪急vs巨人13回戦」参照)である。しかしこの試合での巨人の併殺数は1個だけなので合計は7個。「合計8併殺」の試合は他にあるはずだが不明で、全試合を見直せばどこかにあるはず。戦後だと、「プロ野球審判員物語」とうサイトに「1979年7月29日のヤクルト対中日戦でヤクルトが5個、中日が3個、合計8個の併殺を記録した」と書かれている。
*2013年6月23日付けブログ「15年 阪急vs巨人13回戦」では、当時は「併殺記録」と「併殺打記録」を混同していたようなので、記載内容を修正しています。
*「雑記」欄には「ジャイアンツの6併殺はタイ。合計8併殺もタイ。」と書かれている。
8月19日 (月) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計球史に残る名投手「野村清」については、一リーグ時代は1勝だけなので当ブログでその真の姿をお伝えすることはできない。
昭和9年センバツは補欠でベンチ入りも出場無し、この時は松井栄造も小倉工業に敗れた2回戦でリリーフ登板しただけ。夏の岐阜商業は東海大会決勝で享栄商業に敗れ野村は不出場。
昭和10年センバツは松井栄造が全試合に完投して優勝、野村は全試合ファーストでフル出場。
昭和11年センバツ、1回戦は野村清が先発して松井のリリーフで広島商業にサヨナラ勝ち。2回戦は野村が完投したが松山商業に0対2で敗れた。夏の大会は1回戦で野村が盛岡商業を完封。2回戦も野村が先発して松井のリリーフで鳥取一中に快勝。3回戦も野村が和歌山商業を1点に抑えて完投勝利。準決勝から松井が先発に回って育英商業に完投勝ち。決勝の平安中学戦も松井が完投して優勝。昭和11年夏は野村清が準決勝まで松井栄造を休ませたことが優勝の要因であった。
昭和13年センバツは野村清がエース、大島信雄が控えで準決勝敗退。夏は初戦の2回戦で野村が松本商業を完封。3回戦も野村が下関商業を完封。準決勝は野村-大島のリレーで甲陽中学を降し、決勝は大島信雄が完投して平安中学に敗れた。大島は昭和15年センバツで全試合完封で優勝を果たす。
野村清は明大を経て全京城に入団し、昭和15年都市対抗では4連投で優勝、決勝の大連実業戦は1安打完封で、野村は橋戸賞を獲得する。昭和16年の都市対抗は中国戦線の拡大から中止、昭和17年の都市対抗は全京城が2連覇するが、この時のメンバーに野村の名は無い。
最初のプロ入りは昭和21年セネタースで1勝のみであることは実況中継のとおり。
昭和22年は豊岡物産に転じて都市対抗に出場、1回戦でこの大会二連覇することになる大日本土木戦に完投して1対3で敗れる。皮肉なことに大日本土木は野村の母校岐阜商業のOBで構成されたチームであった。
昭和23年都市対抗は初戦の2回戦で大洋漁業戦に完投勝利。大洋漁業は後にプロ入りする選手が複数在籍する強打のチームであった。準々決勝も強豪全大阪に完投勝ち、準決勝でも優勝した西日本鉄道戦に完投するが0対1で敗れた。
「武史」改名後、昭和25年には2度目のプロ入りで毎日オリオンズに入団、18勝をマークしてパ・リーグ初年度優勝に貢献する。日本シリーズでは第2戦に完投勝利、第5戦にも3対2で完投勝利、第6戦は三番手で登板して3回3分の1を無失点に抑え、初代日本一の胴上げ投手となったのである。
昭和29年は弱小高橋ユニオンズで15勝をマーク、これはチーム53勝の2割8分3厘を占める。
球界引退後は政界に転じ、船橋市議会議員を務める。昭和46年5月22日~昭和48年6月9日の第22期と、昭和56年6月8日~昭和58年4月30日の第27期に市議会副議長を務めた。
甲子園、都市対抗、プロ野球、日本シリーズで優勝を経験、しかも全て主力投手として優勝に貢献する稀有の球史を持つ。
*参照文献等:「全国高等学校野球選手権大会50年史」、「選抜高等学校野球大会50年史」、「都市対抗野球60年史」、「栄光の日本シリーズ(ベースボールマガジン平成11年11月号増刊)」、サイト船橋市「議会の構成」
第17節の九州遠征は3日目で終了し、4日目と5日目は後楽園で2試合ずつ。
第1試合はプロ入り初先発となる野村清と中尾輝三の先発で午後1時5分、国友球審の右手が上がりプレイボール。
巨人は初回、一死後山川喜作がライトに二塁打、千葉はストレートの四球で一死一二塁、川上のニゴロでセカンド大沢喜好が二塁ベースカバーのショート鈴木清一に送球して千葉はフォースアウト、鈴木からの一塁送球はセーフ、この間に三塁に達していた二走山川がホームに突っ込み、ファースト飯島がホームに送球するが悪送球となって山川が生還し1-0、打者走者の川上は二塁に進む。この一打で川上に打点が記録されている。飯島にもエラーが記録されており、山川のホームインは飯島の送球が悪送球でなくてもセーフと判断されて川上に打点が記録され、川上の二塁進塁に対して飯島にエラーが記録されたともの考えられる。ということで二死二塁、鬼頭の右前打で二死一三塁、中島の左前タイムリーで2-0とする。
セ軍は2回表、一言、長持、野村が3連続四球で無死満塁、続く熊耳の初球もボール、全くストライクが入らなくなった中尾が降板してセンターの多田文久三がマウンドに上がり、熊耳の左犠飛で1-2、大沢は一邪飛に倒れて二死二三塁、トップに返り横沢七郎は四球を選んで二死満塁、鈴木が押出し四球を選んで2-2、セ軍はこの回無安打で同点に追い付く。
セ軍は5回表、先頭の飯島がレフトスタンドに勝ち越しホームランを叩き込んで3-2、大下が四球から二盗に成功、一言は三塁に内野安打、二走大下は動けず無死一二塁、長持が四球を選んで無死満塁、ここで野村が右前にプロ入り初ヒットとなるタイムリーを放ち4-2、熊耳がこの日2本目の犠飛をライトに打ち上げて5-2、二走一言と一走長持もタッチアップから進塁して一死二三塁、清水喜一郎は投邪飛に倒れて二死二三塁、これはスクイズ失敗か、トップに返り横沢が左中間に2点タイムリー二塁打を放ちこの回5点、7-2と大きくリードする。
巨人は5回裏、先頭の川上は一ゴロ、続く黒沢は四球、セ軍ベンチはここで先発の野村から黒尾重明にスイッチ、黒尾が後続を抑える。
巨人は8回裏、一死後谷口記念治が左前打で出塁すると二盗を試み、キャッチャー熊耳からの二塁送球をセカンド清水が後逸して谷口はセーフ、タイミングはアウトであったようで「盗塁」は記録されていない。呉新亨が左前打を放って一死一三塁、トップに返り山田潔は三ゴロに倒れて二死二三塁、山川が四球を選んで二死満塁、千葉のニゴロを又も清水がエラーする間に三走谷口が還って3-7、しかし一発出れば同点という場面で川上は二飛に倒れて反撃もここまで。
野村清は4回3分の1で降板したが「勝利投手」が記録された。前日の八幡大谷球場でのゴ軍vs阪急戦ではリードしたまま4回3分の2で降板した江田孝には「勝利投手」は記録されておらず、リリーフの内藤幸三が勝利投手となっている。この時期には「勝利投手」の定義はかなり明確となっており、「先発投手が5回を完了せずに降板して勝利投手」は戦前ほど見られなくなっているので、野村清の「先発して4回3分の1で降板しての勝利投手」は戦後では極めて珍しい記録であると言える。
リリーフの黒尾重明は4回3分の2を4安打1四球無三振1失点、実況のとおり自責点はゼロであり、リリーフ投手の投球内容が悪かったため5回を完了していない野村清に勝利投手が記録されたとは説明しにくい状況であった。
なお、珍しいことは重なるもので、高校野球史、社会人野球史、「武史」改名後には二リーグ分裂後のプロ野球史に重要な足跡を残した野村清の一リーグ時代のプロでの勝利はこの試合だけである。
*「武史」改名後、毎日時代の直筆サイン入りカード。写真からも分かるとおり二リーグ分裂後は下手投げであった。高校時代から下から投げていたかどうかは不明。岐阜商業時代は左腕速球派の松井栄造、大島信雄との二枚看板で甲子園を沸かせた。
三塁打 (急)鳥居
勝利打点 (ゴ)末崎正隆 1
内藤幸三が好リリーフ
八幡大谷球場の第2試合は江田孝と天保義夫の先発で午後4時1分、沢球審の右手が上がりプレイボール。
ゴ軍は初回、先頭の坂本勲が中前打で出塁、大友の右前打で無死一二塁、酒沢は二飛に倒れ、坪内も遊ゴロ、しかしこれをショート上田がエラーして一死満塁、末崎の一ゴロの間に三走坂本が還って1点を先制する。
ゴ軍は5回表、先頭の江田が三塁にヒット、大崎欣一の送りバントをファースト野口明が後逸する間に一走江田は三塁に、打者走者の大崎は二塁に、犠打とエラーが記録されて無死二三塁、トップに返り坂本の投ゴロはランナーそのままで一塁アウト、二走大崎の離塁が大きいと見たファースト野口明が二塁に送球して大崎は戻れずタッチアウト、三走江田は動かず二死三塁、大友が四球を選んで二死一三塁、酒沢の右前タイムリーで2-0、阪急ベンチはここで先発の天保から今西錬太郎にスイッチ、坪内が四球を選んで二死満塁、ここで今西が痛恨のボーク、三走大友が還って3-0、二死二三塁から末崎の一二塁間2点タイムリーで5-0と大きくリードする。
阪急は5回裏、先頭の鳥居兵治がストレートの四球で出塁、荒木茂は中飛に倒れ、今西の右前打で一死一二塁、トップに返り山田伝の中前タイムリーで1点返して1-5、上田が四球を選んで一死満塁、野口二郎の遊ゴロ併殺崩れの間に三走今西が還って2-5、野口明が四球を選んで二死満塁、続く坂井豊司に初球を投じる際、江田が痛恨のボークを犯して三走山田が還り3-5、勝利投手の権利まであと一死のところで江田が降板してリリーフに内藤幸三が送られ、坂井は遊ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。
内藤は4回3分の1を1安打2四球3三振無失点の好リリーフで12勝目をあげる。
両軍にボークによる得点があるという珍しい試合となった。
ゴ軍は中部を抜いて7位に浮上、0.5ゲーム差で6位パ軍、更に1ゲーム差で5位セ軍と、5位以下はセ軍から中部まで勝率で3分4厘差の中に4チームがひしめき合う混戦となっている。
なお、この試合で阪急のレフトでスタメンの鳥居兵治は1打数1安打1得点1四球三塁打1本、第三打席で大平茂が代打に起用されて鳥居に代わってレフトに入り2打数1安打。しかしながらスコアカードには大平茂のスタンプが押されておらず、薄く「大平」と読めるメモだけが残されている。「日本プロ野球記録大全集」では大平は不出場となっており、全て「鳥居兵治」の成績に合算されて「3打数2安打」と誤って記録されている。
「日本野球連盟」発行の「日本野球年鑑」には鳥居が1打数1安打、大平が2打数1安打と正しく記録されていることから、公式記録は正しく記録されていると考えられる。シーズン終了後に全成績を集計すれば判明します。「日本プロ野球記録大全集」はスコアカードの誤った記載も機械的にそのまま集計されているのでこのような誤りが複数認められる。記録の集計は「手作業」で行わないと、このようなイレギュラーなケースに対応できないのである。
勝利打点 (グ)宮崎仁郎 1
グ軍、守り勝って9連勝
八幡大谷球場の第1試合は櫛田由美彦と服部受弘の先発で午後2時丁度、杉村球審の右手が上がりプレイボール。櫛田はプロ入り2度目の登板で初先発。
中部は2回裏、一死後打席に立つのは九番笠石徳五郎、中部は四番を打ってきた加藤正二を下げてライトに笠石を起用、その笠石が右中間に三塁打、トップに返り古川の中犠飛で1点を先制する。
グ軍は5回表、先頭の岡村がバントヒット、ピッチャー服部の一塁送球が悪送球となる間に打者走者の岡村は二塁に進み、木村勉の投前送りバントは一塁ベースカバーのセカンド金山が落球、犠打とエラーが記録されて無死一三塁、木村が二盗を決めて無死二三塁、櫛田のニゴロで三走岡村がスタート、金山がホームに送球するがセーフ、野選が記録されて1-1の同点、無死一三塁から宮崎仁郎が左前にタイムリーを放ち2-1と逆転に成功する。
中部は6回裏、先頭の杉浦清監督が四球で出塁、小鶴が送って一死二塁、大沢は右飛に倒れて二死二塁、続く藤原のカウントツーボールワンストライクのところで櫛田が二塁に牽制、この時捕球したショート宮崎のピッチャー返球は偽投、二走杉浦が目を離して離塁したところに宮崎がタッチ、「隠し球」が決まってスリーアウトチェンジ。
グ軍は7回表、一死後隠し球を決めたばかりの宮崎が中前打で出塁、トップに返り安井はストレートの四球で一死一二塁、河西の中前タイムリーで宮崎が還って3-1、田川も中前タイムリーで続いて4-1と突き放す。
中部は8回裏、一死後杉浦が四球を選んで出塁、代走に三村を起用、加藤に代わって四番に入った小鶴が左中間にタイムリー二塁打を放ち2-4、大沢が得意の右打ちを決めて右前タイムリーを放ち3-4と1点差、藤原の右越え二塁打で藤原は三塁ベースを蹴ってホームに向かうが、ライト岡村からの返球を中継したセカンド安井からの好返球に本塁タッチアウト。
櫛田由美彦は9回裏の中部の反撃を抑え、6安打9四球4三振の完投でプロ入り初勝利をあげる。
宮崎仁郎が決勝打、隠し球、追加点のきっかけになるヒットの活躍、安井亀和も好守でピンチを救った。
守り勝ったグ軍はこれで9連勝、1.5ゲーム差に迫った首位タイガースは2時50分に始まった後楽園の第2試合で苦戦している。
セ軍は初回、一死後横沢七郎が左中間に三塁打を放って先制のチャンス、しかし井筒は慎重に攻めて飯島はワンストライクから4球ボールで四球、大下もワンストライクから4球ボールで四球で一死満塁、前日本塁打を放った長持栄吉のニゴロが「4-6-3」と渡ってダブルプレー。
パ軍は1回裏、先頭の白石が右前打で出塁、富松が四球を選んで無死一二塁、藤井勇は投飛に倒れるが、森下が三塁線を破るタイムリー二塁打を放ち1-0とする。
初回の攻防がこの試合の全てであった。
セ軍は9回表、二死後飯島が左中間に二塁打、大下は四球、長持も四球で二死満塁、白木が遊飛に倒れてゲームセット。大下の四球はスリーボールから1球ストライクの後にボールで歩かされたもの。井筒の意図は敬遠であったが大下が4球目を振ったものではないか。
井筒研一は3安打5四球3三振で今季4度目の完封、スミ一を守り切って9勝目をマークする。5四球のうち4個は、初回と9回のピンチに飯島、大下(2個)、長持の主軸を歩かせたもので、計算ずくのピッチングであった。今季ここまでの最多完封は藤本英雄の5回で、井筒の4回は近藤貞雄と並んで2位タイ。シュートとカーブがキレている時の井筒は中々打てないのである。
白木義一郎は6安打2四球3三振1失点で敗戦投手となったが、この試合では守備で2つのファインプレーを見せた。6回には富松のセーフティバントがファウルゾーンへの小フライとなったのに飛び付き「投邪飛」を記録している。このケースだとダイブした可能性も考えられる。白木は投げない時は一番センターで出場しているように、非常に運動能力が優れている。
パ軍は主砲森下の一打で5位セ軍に1ゲーム差と迫ってきた。6位パ軍と半ゲーム差で7位に中部、更に半ゲーム差で最下位のゴ軍と、下位は混戦となっている。