2010年5月15日土曜日

松木謙治郎は二塁を踏んだか



 先日お伝えした通り、昭和12年5月1日、対タイガース3回戦で澤村栄治投手が自身二度目のノーヒーット・ノーランを達成しました。翌日の読売新聞には市岡忠男の論評が掲載されており、「無敵の強打陣を布くタイガースを向こうに廻して僅か三の四球で三走者に一塁を與えたのみ、一人も二塁を踏ましめなかったという無類の好投は彼にして初めて演ぜられる放れ業であり」と記されています。
 別に前回のノーヒット・ノーランの時と比較した記事も掲載されており、「タ軍に許した四球三で三走者を出したのみ、一人も二塁を踏ましめずその上澤村の奪った三振は十一を数えて全体的に断然優れている」と記されています。
 また、大和球士氏著「真説日本野球史」昭和篇その三には、「タ軍打棒を寄せつけず、四球三。味方に失策なしで、走者も四球の三人だけ。二塁を踏ませず。」と記述されています。


 上の写真は1回表タイガースの攻撃の場面です。一番打者松木謙治郎は四球(BB)で一塁に歩き無死一塁となります。二番打者藤井勇はピッチャーフライ(F-1)でワンアウト(下の1はワンアウト目を表します)、一死一塁となります。三番打者御園生崇男はキャッチャーゴロ、キャッチャーからファーストへ送球されて(2-3)ツーアウト(下の2は2アウト目を表します)となります。したがって、一塁走者松木謙治郎は二塁に達して二死二塁となります(左角のcは三番打者により二塁に進塁したことを表します)。そして四番打者小島利男のピッチャーゴロがファーストに送球されて(1-3)スリーアウト、松木謙治郎に残塁が記録されました。


 松木の二塁進塁を「二塁を踏んだ」と認定するべきか否かは評価が分かれるところでしょう。外形的には「二塁を踏んだ」とも見えます。実質論からは御園生崇男のボテボテ(恐らく)のキャッチャーゴロで二塁に走っただけであり、「二塁を踏んだ」とは言えないと見ることもできます。
 御園生のキャッチャーゴロが送りバントであれば当然松木は「二塁を踏んだ」ことになります。しかし、送りバントの場合は「2-3」が四角で囲まれて御園生に犠打が記録されますが、スコアブックの記載は上のとおり四角では囲まれておりませんし、御園生に犠打も記録されておりません。


 ここでヒントとなるのは、当ブログでもお伝えしているとおり(2010年3月14日付けブログ「解読」を参照してください)、当時は犠牲フライが記録されておりませんが、その理由が、広瀬謙三氏著「野球スコアのつけ方」によると、「外野飛球で走者が進塁、得点するのは当然のなりゆきである」というものだったことです。


 すなわち、当時の基準では、ゴロによる進塁は「二塁を踏んだ」とは看做さないというもであったということでしょう。松木が二塁へ「進塁」したのは事実ですが、澤村の快投が、市岡忠男や大和球士に「二塁を踏んだ」と言わせないだけの実質をともなっていたからであると考えます。


 最後に、当の松木はどう思っていたのでしょうか。松木謙治郎著「タイガースのおいたち」にはこの試合について、「第二期の第一戦、五月一日洲崎において巨人と対戦したが、この試合は澤村に再びノーヒット・ノーラン記録をつくられ4対0で破れることになった。」とした上で、読売新聞の記事を転載しています。この記事は、上に書いた市岡の論評とは別の「前回のノーヒット・ノーランの時と比較した記事」の方であり、全文を転載しているのですが、「タ軍に許した四球三で三走者を出したのみ、一人も二塁を踏ましめずその上澤村の奪った三振は十一を数えて全体的に断然優れている」の部分だけは、「タ軍に許した四球三で三走者を出したのみ、その上澤村の奪った三振は十一を数えて全体的に断然優れている」と、「一人も二塁を踏ましめず」の部分がそっくりそのまま抜け落ちています。

 松木とすれば、澤村の快投は認めるものの「タイガースのおいたち」の原稿を書くにあたって、悔しさがこみ上げてきて、自身の脚で間違いなく二塁を踏んだことを思い出し、「一人も二塁を踏ましめず」の部分を削除したのではないでしょうか。
 ここに松木の意地を見た思いがすると同時に、この点を騒ぎ立てるわけでもなかったことに松木の懐の深さを感じます。

 

 

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