2014年2月23日日曜日

KANO




 台湾映画「KANO」の公開が近づいてきました。


 嘉義農林野球部の奮闘を描いた作品ですが、日本での封切りに合わせるかのように当ブログにおいて嘉義農林出身の呉波(後に「呉昌征」)が昭和16年6・7月の月間MVPに輝きました。


 嘉義農林野球部は有名な「呉」選手を三人輩出しています。


 一人目は昭和6年の甲子園初出場で準優勝に導いたエースで四番の「呉明捷」です。呉明捷は早稲田に進み、宮武三郎と並ぶ東京六大学野球リーグ戦通算7本塁打の記録は戦後長嶋に抜かれるまでのリーグ記録でした。


 二人目が当ブログでも活躍中の「呉波」です。昭和8年(第19回)、10年(第21回)、11年(第22回)の夏の甲子園と10年(第12回)センバツに出場しました。


 三人目が「呉新亨」(後に「萩原寛」)です。昭和17年夏には台湾代表が決定していましたが甲子園大会が中止となったため甲子園出場はなりませんでした。昭和18年に日本のプロ野球に進み大和に入団しますので当ブログでもそのプレーぶりをお伝えする予定です。翌19年に巨人に移籍して盗塁王に輝きます。しかもこの年阪神に移籍した呉波と並んで嘉義農林出身の二人の「呉」選手が盗塁王となりました。昭和23年に登録名が「呉元敞」に変わり、24年から「萩原寛」となります。


 日本のプロ野球に進んだ人物としては今久留主淳、今久留主功兄弟がいます。今久留主淳は西鉄ライオンズ黄金時代のコーチとして有名ですね。


 「嘉義農林野球部史」は台湾で発行されています。日本では見たことがありませんが、野球殿堂博物館の図書館で見ることができます。嘉義農林野球部について調べたい方はぜひご覧ください。呉波について詳しく知りたければ、ネット上で無料公開されている岡本博志著「人間機関車 呉昌征」をご覧ください。呉波のプレーぶりを知りたければ、当ブログをお読みください(笑)。




        *昭和10年センバツメンバー。毎日新聞社発行「選抜高等学校野球大会50年史」より。

 
 
 
 
 
 
 
 


          *昭和26年頃の今久留主淳のサイン。









          *昭和28年日米野球時の呉波(呉昌征)のサイン。





 
 



 

2 件のコメント:

  1. 呉明捷の六大学通算7本塁打は宮武三郎と並ぶ本塁打記録でしたが、その中身はなかなか濃いものです。
    通算本塁打7本のうち6本が柵越え、つまりスタンドインの本塁打。宮武は森谷良平と並ぶ5本でした。
    呉は2本のサヨナラ本塁打を放っており、1936(昭和11)年10月11日早立二回戦の九回に西郷準からサヨナラ2点本塁打、1937(昭和12)年6月5日早慶一回戦の延長一一回に中田武雄から逆転サヨナラ2点本塁打。これは1対0からの起死回生の一発でした。
    さらに1938(昭和13)年5月14日早明一回戦で清水秀雄、長谷川治から一試合2本塁打。
    右打者は右へ流し、左打者は左へ流す、ワセダ式バッティングを指導されなかったのは日本人離れしたリキがあったからでしょう。
    個人的には田中勝雄、宮武とともに戦前最高のスラッガー三傑の一人です。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. 同じく早稲田式バッティングをやらなかった中島治康は早稲田時代は干されていたようですね。

      昭和6年甲子園準優勝時の飛田穂洲の論評によると、準決勝の小倉工業戦に全力をつくして決勝の中京商業戦はカーブにコントロールがなかったとのことです。小倉工業には10対2で勝っていますので、この試合でもう少し手を抜いていたら嘉義農林の優勝、そうすると中京商業の三連覇もなかったことになります。小倉工業の三番キャッチャーは新富卯三郎でした。

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