2015年3月7日土曜日

八木進



 昭和17年5月22日の黒鷲戦で9回に決勝打を放った南海のキャッチャー八木進は関東学院中学の出身ですが”関西学院中学出身”と誤って伝わっているケースが多いことはこれまでも複数回お伝えしているところです。「関西学院野球部史」には「八木進」の名前は見当たらず、旧「商売人と言われた職業野球」様で現「野球千夜一夜」様によると、大和球士の記述に「ハマの関東学院中学の出身で身長五尺八寸五分。横浜中等球界の三羽烏として飯田徳治、小松原博喜と共に鳴らした男である。」と書かれているそうです。「神奈川県高等学校野球六十年史・球音」には、昭和13年~15年の関東学院中のテーブルスコアに「キャッチャー八木」の名前が見られますので関東学院中出身であることが確認できます。当ブログ等の活躍により、今では「Wikipedia」にも「関東学院中学の出身」と書かれるようになりましたので、もう間違える心配はありませんね。


 大和球士の記述には「八木捕手はミクロネシアのボナベ島の生まれで、島で働く父親を残して内地で勉強をしていた」とも書かれているそうです。「ポナペ島に野球なんてあるの?」という問いには当ブログがお答えします。朝日新聞社/日本高等学校野球連盟発行「全国高等学校野球大会50年史」には、昭和14年の夏の甲子園大会第6日に「南洋群島から日本へ観光旅行に来ていた酋長ら一行18人が甲子園を訪れた。」とあり、「中でもポナペ島出身のアントン君『南洋の球場などオモチャみたいだ』と目を白黒。」と書かれています。したがって、「ポナペ島には野球があります」が正解です。


 昭和14年前後の神奈川県中等学校野球界で三羽烏と謳われた飯田徳治、小松原博喜、八木進のうち、飯田と小松原は戦後のプロ野球で大成し飯田は1955年パ・リーグ最高殊勲選手、小松原は1955年セ・リーグ二塁打王となるが、八木進は戦死することとなる。





*昭和13年~15年の関東学院中学打線。「キャッチャー八木」が八木進です(「神奈川県高等学校野球六十年史・球音」より)。

















 

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