2012年6月9日土曜日

15年 ジャイアンツvsタイガース 1回戦


3月17日 (日) 甲子園

1 2 3 4 5 6 7 8 9  
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 ジャイアンツ 0勝2敗 0.000 中尾輝三
0 1 1 0 1 0 0 0 X  3 タイガース   2勝0敗 1.000 若林忠志

勝利投手 若林忠志 1勝0敗
敗戦投手 中尾輝三 0勝1敗

三塁打 (タ)皆川

勝利打点 岡田宗芳 1



若林忠志5安打完封

 初戦の阪急戦をスタルヒンで落したジャイアンツは中尾輝三が先発。一方、初戦のイーグルス戦に木下勇を回したタイガースは若林忠志をぶつけてきた。

 初回は三者凡退に終わったタイガースは2回、先頭の松木謙治郎が二塁に内野安打、ボークで二塁に進みカイザー田中義雄の二ゴロの間に三進して一死三塁、岡田宗芳の左犠飛で1点を先制する。

 タイガースは2回、一死後富松信彦が四球を選んで出塁、トップに返りジミー堀尾文人の二ゴロの間に富松は二進、皆川定之が右中間に三塁打を放って2-0とする。

 タイガースは5回、富松の三飛をサード水原茂が落球、しかも一塁送球が悪送球となる間に富松は二塁に進む。水原のダブルエラーには失策2が記録されている。トップに返り堀尾が右翼線にタイムリーを放って3-0とリードを広げる。

 ジャイアンツは初回、一死後水原が右前打で出塁、しかし千葉茂の当りはライト森国五郎へのライナーとなり水原は返れずダブルプレー。翌日の読売新聞はこの場面を「千葉の右翼への猛ライナーを発矢と掴んだ森が二度三度ととんぼを切りながらもよく処理して既に二塁を過ぎていた水原を併殺した」と伝えている。エンドランが掛かっていたようだ。

 ジャイアンツは2回~5回は若林の巧投に無安打に抑えられる。6回は吉原正喜が内野安打で出塁するが白石敏男の二直に戻れずダブルプレー。7回も二死後中島治康が右前打を放つが川上哲治は遊ゴロに倒れる。

 ジャイアンツは8回、先頭の平山菊二が右前打で出塁、林清一も右前打で続いて無死一二塁、吉原の投ゴロで平山が三封されて一死一二塁、中尾の二ゴロが「6-4-3」と転送されてこの日3つ目のゲッツー。一番から始まる最終回も三者凡退に終わる。

 

 若林忠志は5安打1四球2三振の完封で1勝目をあげる。中尾輝三も4安打1四球2三振の好投であった。前年と殆どメンバーが変わらないジャイアンツと景浦将、門前真佐人が兵役で抜けたタイガースとの伝統の一戦はタイガースが気魄で上回った。断トツ優勝候補のジャイアンツは開幕二連敗。
 


 若林と中尾の投げ合いばかりに目を奪われがちであるが、本日のキーマンは森国五郎であった。すなわち、初回に千葉の猛ライナーを森が横っ跳びに好捕してダブルプレーを取り、5回の打席では水原のダブルエラーを誘って3点目のホームを踏んだ。
 


 森国五郎は大分商業の出身。昭和13年の第14回夏の甲子園に出場している。プロでは昭和16年まで活躍した後応召して戦死することとなる。大分商業出身では昭和10年の第12回センバツに出場した同年生まれの児玉利一は早生まれなので学年は森よりも上かもしれない。児玉は生き延びて戦後は中日の主力打者として活躍し、引退後は解説者としても名高い。

 球史においては戦後最高左腕の一人、「火の玉投手」「和製ボブ・フェラー」と呼ばれた荒巻淳が最も評価が高い。

 

 荒巻に次ぐ投手が河原明です。河原は昭和42年、第49回夏の甲子園に出場して1回戦、2回戦で連続完封。アサヒグラフでは「大会随一の左腕」市立和歌山商業の野上俊夫(後に阪神、南海)と共に1ページ目に登場して「今大会屈指の好投手」と紹介されています。西鉄入団後は永久追放となった益田、与田と共に池永に次ぐピッチャーでしたが黒い霧事件によりいきなりエースの座に就かざるを得なくなりました。1970年は13勝19敗、71年は4勝16敗、72年は5勝12敗。黒い霧以降の最後の三年間の西鉄のエースは河原です。この間に東尾が11勝18敗、8勝16敗、18勝25敗と力を付けていき、名球界まで昇りつめていくこととなります。2010年2月にスポニチに掲載された「我が道」の東尾修編第10回に、稲尾監督にしごかれていた当時、河原と東尾と柳田(のちに近鉄で活躍、当時は下手からの快速球投手でした)の三人で滝に打たれる修行をさせられている場面の写真が掲載されました。河原はスリークウォーターとサイドから投げ分けるピッチングで通算41勝。セ・リーグでは大洋の山下律雄も同じようにスリークウォーターとサイドから投げ分けていましたが、75年に河原が大洋に移籍して大洋時代は高校時代のようなスリークウォーター(アサヒグラフの写真はフォロースルーのシーンですがスリークウォーターです。)に戻しました。山下律雄は77年に逆にクラウンライターに移籍することとなります。黒い霧事件をきっかけに西鉄ファンになった私が最も多く見に行った試合は後楽園球場の東映vs西鉄戦であり、最も多く見たのが河原のピッチングでした。今に至るまで、最も多く生で見たプロのピッチャーは河原です。現在は地元で実業家兼アマチュア野球の指導をされているようです。







               *西鉄時代の河原明のサインボール







               *エースナンバー18は河原でした。


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