2012年11月23日金曜日

15年 名古屋vs金鯱 7回戦


6月28日 (金) 甲子園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0   0  0 名古屋 24勝16敗4分 0.600 村松幸雄
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0   0  0 金鯱     12勝29敗4分 0.293 古谷倉之助

勝利打点 なし


村松幸雄、2試合連続延長11回を投げ抜く

 名古屋は6月24日の後楽園球場でイーグルスと延長11回を引き分けて甲子園球場に移って4日ぶりの試合となる。余裕の日程と勘違いされるかもしれませんが、25日には宇都宮で1時半から巨人・名古屋連合軍vs鉄道選抜軍の試合を行い、4時からのアトラクションを挟んで4時半から名古屋vsジャイアンツ戦を行っている。これは栃木県野球協会主催、読売新聞社後援の第1回宇都宮定期戦として行われたもので、名古屋vsジャイアンツ戦は大沢清と泉田喜義の先発で9回表に名古屋が3対3に追い付いて延長戦に突入する。10回表に泉田を攻略し、リリーフの川上哲治も打って一挙7点をあげて10対3で名古屋が大勝している。巨人・名古屋連合軍vs鉄道選抜軍の試合は1対1の引分けに終わっている。地方の野球ファンの開拓を目的にしたものと考えられるが、少しでも入場料収入を稼ごうとしたものでもあったようだ。今で言えばWBCのようなものでしょうか。公式戦の途中にオープン戦を組まれたら、現在の選手会であれば「不参加だぁ~」、「ストライキだぁ~」と大騒ぎするでしょうね。


 6月28日からは関西に9球団が集まり、7月3日まで甲子園球場、7月7日まで西宮球場で試合が行われる。

 甲子園シリーズの第1戦は名古屋先発の村松幸雄、金鯱先発の古谷倉之助が延長11回を投げ抜いて0対0の引分けとなった。隠れた球史に残る投手戦と言えるでしょう。

 村松幸雄は11回を投げて9安打3四球3三振無失点、古谷倉之助は11回を投げて4安打5四球6三振無失点。翌日の読売新聞は「名古屋は古谷のドロップに全然手が出ず・・・」と伝えている。

 金鯱は9安打を放ちながら4回は「6-4-3」、6回は「4-6-3」、7回は「5-4-3」と三度の併殺でチャンスを潰した。9回は二死後濃人渉の左翼線ヒット、古谷の四球、森田実の左前打で二死満塁とするが室脇正信は遊飛に倒れる。翌日の読売新聞によると森田の左前打は当りが強すぎたとのことで、二走濃人は三塁にストップせざるを得なかったようだ。最終回も二死後濃人の左翼線ヒット、古谷の中前打、森田の四球で再び二死満塁とするが室脇に代わる代打荒川正嘉が中飛に倒れてゲームセットを告げるサイレンが高々と鳴り響く。


 村松幸雄は24日のイーグルス戦に続いて2試合連続で延長11回を投げ抜き引き分けた。村松は戦死することとなるが、進藤昭著「戦場に散ったエース 投手・村松幸雄の生涯」が1995年に刊行されている。著者の進藤昭は中日新聞の記者で、数少ない手掛かりを掘り起こして綿密な取材をしている。同著によると、村松は小西得郎監督に高く評価されており、村松の妹が東京で働いていた際には無償で自宅に下宿させ、家賃を払おうとすると「そんなものいらないよ。お金をもらうくらいなら預からないよ。」と受け取らなかった。逆に戦時中は小西一家は藤枝の村松家に疎開している。村松の戦死公報が届いた時、小西は「幸のような運の強いやつが死ぬわけがない。あいつは麻雀でもものすごく勝負強かったんだ。きっと帰ってくるよ。」と気遣った。

 古谷倉之助は得意のドロップを駆使して11回を4安打に抑え、村松幸雄は持ち前の勝負強さを発揮して9安打を打たれながら中盤は併殺でピンチの芽を断ち、終盤は2度の満塁のピンチを切り抜けて0対0で引き分けた。



 金鯱には嬉しいニュースが入ってきた。6月29日付け読売新聞は黒澤俊夫が帰還除隊となりノモンハンから還ってくると伝えている。黒澤は昭和12年秋季を最後に兵役に就いていた。当ブログでは12年春季シーズンの第四期に月間MVPに輝いた打棒をお伝えしてきました。









               *村松幸雄、古谷倉之助による延長11回の投げ合い。













     *古谷倉之助に4安打に抑えられた名古屋打線。















     *村松幸雄から9安打を放ちながら無得点に終わった金鯱打線。












 

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