2011年1月30日日曜日

早撃ちマック

 阪急vsジャイアンツ戦では森弘太郎が二つの牽制を決めて勝利をものにしました。牽制で勝利をものにすると言えば、昭和42年夏の甲子園を制した習志野高校を語らずにはいられません。

 習志野のエース石井はよくランナーを出しましたが、悉く牽制で刺しまくりました。付いたあだ名が「早撃ちマック」。準決勝の中京戦では四つの牽制を決めたそうです。二塁牽制は醍醐捕手(阪急・南海の醍醐、東京オリオンズ・ロッテオリオンズの醍醐ではありません)とのサインプレーだったそうです。

 決勝の広陵戦は覚えています。広陵の宇根投手のファン(マウンド上で、左手でボールをスピンさせながら上に放り投げる癖が印象的でした)だったので複雑な心境でした。初回に三番池田(後に慶大、その後は日石だったのではないかと思いますが確かではありません)が先制ツーランを放ったことは各種サイトで確認できますが、私が印象に残っているのは、トップバッターがまだサイレンの余韻が残っている初球を叩いて出塁したことです。三塁線を破ったと記憶していますが確かではありません。初回の先制攻撃で波に乗り、千葉県勢初の全国優勝を達成しました。優勝パレードは市川駅前から始まったのですが、残念ながら見に行っていません。夏休みは神戸の祖父母宅に行っていることが多かったので、市川にはいなかったのではないかと思います。

 石井投手は後に習志野の監督となり、昭和50年に小川(現東京ヤクルトスワローズ監督)を擁して、前年の銚子商業に続いて全国優勝を達成しています。小川もピンチを牽制で切り抜けましたが、もちろん石井監督直伝です。選手及び監督として夏の甲子園を制したのは石井氏が最初のようです。まだ「ならしの」と読んでもらえず、「しゅうしの」と呼ばれていた頃の物語です。
  

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