高市総理の発言を巡って、日中関係が悪化している。今こそ先人の叡智を見習い対処すべき時であろう。
1971年の卓球世界選手権は名古屋で開催された。世界最強の中国チームは文化大革命の影響で世界選手権には2大会連続で出場しておらず、6年ぶりの世界選手権復帰となった。
この大会での偶然のハプニングが世界を動かした。某アメリカ人選手が誤って中国チームのバスに乗り込んでしまった。当時の中国選手団はアメリカ選手との接触を禁じられていたが、中国選手団のリーダーであった荘則棟はそのアメリカ選手を暖かく迎えたのである。このニュースがきっかけとなって大会後にアメリカ卓球チームが中国に招待され、キッシンジャーが中国を訪問するなど米中関係が急接近することになった。当時の中国は隣国のソ連(現ロシア)との関係が悪化しており、外交戦略の見直しを模索していた。
1972年7月に総理大臣に就任した田名角栄は、「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた行動力で電光石火の動きを見せ、同年9月に日中国交回復が実現した。更に中国は1か月後、日中親善の使者としてパンダのランランとカンカンを上野に派遣したのである。
他の多くの方々の努力もあったが、偶然バスに乗り込んでしまったアメリカ選手に対する荘則棟の対応が世界を動かしたのである。なお、卓球に詳しくない方のために説明すると、卓球界における荘則棟の存在は、日本野球史における沢村栄治、長嶋茂雄、王貞治、大谷翔平に匹敵する歴史的名選手であった。
筆者の父親は卓球でインターハイ優勝、国体出場のカットマンだった。小学校時代の筆者は、週末には市川市立真間小学校の体育館に連れて行かれてトップアマの下回転のカットボールを上回転のドライブで打ち返していた。1971年世界選手権は中学1年生の時で、中国の6年ぶり復帰で荘則棟が来日するというニュースはよく覚えている。中国チームは「友好第一」の態度で、どんな試合でも相手選手に1ゲームを与えるという試合運びであった。卓球では10対0の場合、スコンクゲームにしないように相手に1点与える慣習がある。近年では容赦なく11対0で勝つケースも出てきているが。
なお、現在では「日中国交正常化」という表現が使われているが、NHKアーカイブで誰でも見ることのできる当時のニュースでも「国交回復」という表現が使われているように、当時は「日中国交回復」と呼ばれていたので本稿でもそれに従った。ご了承願いたい。
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