昭和22年8月1日、太陽ロビンスの藤本定義監督は、1点ビハインドの9回裏の攻撃で、四球で出塁した佐竹一雄に代走として石田良雄を送り、石田が三塁に進んだ時点で蔵本光夫を代走に起用してダブルスチールを狙うという奇策を講じて同点に追い付いた。
佐竹一雄は捕手と一塁手を兼務する選手で足は速くない。9回裏に同点のランナーが出れば足の速い選手を代走に送るのはセオリーである。石田良雄は城東商業の出身でこの日がプロ入り初出場。藤本監督は同点を狙って佐竹に代えて若手の石田を代走に起用した。そして石田が三塁に進む展開となり、ダブルスチールを狙うために石田よりも経験豊富の蔵本光夫を「代走の代走」として起用してダブルスチールを敢行、これがショート小林悟楼の悪送球を誘って同点に追い付いたのである。
確認できる範囲ではあるが、これがプロ野球史上初の「代走の代走」であった。
「代走の代走」はこの後も2事例が確認されている。
2003年頃に横浜の山下大輔監督は、一塁に出塁したタイロン・ウッズに代えて代走に河野友軌を起用、河野が二塁に進むと「代走の代走」に田中一徳を起用した。強打のウッズは「通算2940打数で三塁打0本」の日本記録保持者であることから分かるように足は遅かった。山下監督はまず若手の河野を代走に出して様子を見てから、スコアリングポジションに進んだ場面で「足のスペシャリスト」であった田中一徳を「代走の代走」に起用したのである。PL学園時代の田中一徳は1998年夏の甲子園で歴史的名勝負となった横浜高校戦で松坂大輔から4安打を放ってドラ一でプロ入りした。165cmと小柄ながら俊足好打を評価されてプロの世界に飛び込んだのである。
2011年には阪神の真弓明信監督が一塁に出塁した桧山進次郎に代えて代走に野原将志を起用し、野原が二塁に進んだ場面で「走の切り札」であった大和を「代走の代走」に起用したのである。この頃の桧山は「代打の切り札」として活躍しており走力は衰えていたので若手の野原を代走に起用し、スコアリングポジションに進んだところで大和を「代走の代走」に起用した。
プロ野球史上で確認できる「代走の代走」は上記の3つの事例だけであるが、共通点は多い。
①足の遅い選手が一塁に出塁する。
②足の速い若手を代走に起用する。
③スコアリングポジションに進んで勝負の場面となったところで経験豊富なスペシャリストを「代走の代走」として起用する。
そして、この策を選んだ監督が藤本定義、山下大輔、真弓明信だった点にも注目したい。
藤本監督は自伝のタイトルが「覇者の謀略」だったように知略に長けた監督として知られており、山下大輔と真弓明信は現役時代は「名遊撃手」であった。「遊撃手」が最も広い視野で野球を見るポジションであることは言うまでもなく、監督としても広い視野で野球を見ていたことが分かる。
なお、石田良雄はこの試合がプロでの唯一の試合出場であった。通算1試合で0打数0安打であったことはネット上でも確認できるが、その1試合の出場が「代走で出て代走を送られて引っ込んだ」という事実は、当ブログの読者以外で知る者はいない。真実は当ブログにある。