2021年1月6日水曜日

野村武史の球史

 球史に残る名投手「野村清」については、一リーグ時代は1勝だけなので当ブログでその真の姿をお伝えすることはできない。

 昭和9年センバツは補欠でベンチ入りも出場無し、この時は松井栄造も小倉工業に敗れた2回戦でリリーフ登板しただけ。夏の岐阜商業は東海大会決勝で享栄商業に敗れ野村は不出場。

 昭和10年センバツは松井栄造が全試合に完投して優勝、野村は全試合ファーストでフル出場。

 昭和11年センバツ、1回戦は野村清が先発して松井のリリーフで広島商業にサヨナラ勝ち。2回戦は野村が完投したが松山商業に0対2で敗れた。夏の大会は1回戦で野村が盛岡商業を完封。2回戦も野村が先発して松井のリリーフで鳥取一中に快勝。3回戦も野村が和歌山商業を1点に抑えて完投勝利。準決勝から松井が先発に回って育英商業に完投勝ち。決勝の平安中学戦も松井が完投して優勝。昭和11年夏は野村清が準決勝まで松井栄造を休ませたことが優勝の要因であった。

 昭和13年センバツは野村清がエース、大島信雄が控えで準決勝敗退。夏は初戦の2回戦で野村が松本商業を完封。3回戦も野村が下関商業を完封。準決勝は野村-大島のリレーで甲陽中学を降し、決勝は大島信雄が完投して平安中学に敗れた。大島は昭和15年センバツで全試合完封で優勝を果たす。

 野村清は明大を経て全京城に入団し、昭和15年都市対抗では4連投で優勝、決勝の大連実業戦は1安打完封で、野村は橋戸賞を獲得する。昭和16年の都市対抗は中国戦線の拡大から中止、昭和17年の都市対抗は全京城が2連覇するが、この時のメンバーに野村の名は無い。

 最初のプロ入りは昭和21年セネタースで1勝のみであることは実況中継のとおり。

 昭和22年は豊岡物産に転じて都市対抗に出場、1回戦でこの大会二連覇することになる大日本土木戦に完投して1対3で敗れる。皮肉なことに大日本土木は野村の母校岐阜商業のOBで構成されたチームであった。

 昭和23年都市対抗は初戦の2回戦で大洋漁業戦に完投勝利。大洋漁業は後にプロ入りする選手が複数在籍する強打のチームであった。準々決勝も強豪全大阪に完投勝ち、準決勝でも優勝した西日本鉄道戦に完投するが0対1で敗れた。

 「武史」改名後、昭和25年には2度目のプロ入りで毎日オリオンズに入団、18勝をマークしてパ・リーグ初年度優勝に貢献する。日本シリーズでは第2戦に完投勝利、第5戦にも3対2で完投勝利、第6戦は三番手で登板して3回3分の1を無失点に抑え、初代日本一の胴上げ投手となったのである。

 昭和29年は弱小高橋ユニオンズで15勝をマーク、これはチーム53勝の2割8分3厘を占める。

 球界引退後は政界に転じ、船橋市議会議員を務める。昭和46年5月22日~昭和48年6月9日の第22期と、昭和56年6月8日~昭和58年4月30日の第27期に市議会副議長を務めた。

 甲子園、都市対抗、プロ野球、日本シリーズで優勝を経験、しかも全て主力投手として優勝に貢献する稀有の球史を持つ。

*参照文献等:「全国高等学校野球選手権大会50年史」、「選抜高等学校野球大会50年史」、「都市対抗野球60年史」、「栄光の日本シリーズ(ベースボールマガジン平成11年11月号増刊)」、サイト船橋市「議会の構成」

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