敗戦投手 野村清 1勝1敗
2021年2月23日火曜日
21年 巨人vsセネタース 9回戦
敗戦投手 野村清 1勝1敗
2021年2月21日日曜日
21年 グレートリングvs阪急 11回戦
敗戦投手 天保義夫 10勝8敗
2021年2月15日月曜日
21年 タイガースvs巨人 11回戦
8月24日 (土) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計敗戦投手 御園生崇男 5勝3敗
2021年2月11日木曜日
21年 ゴールドスターvsパシフィック 7回戦
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
敗戦投手 内藤幸三 12勝15敗
2021年2月7日日曜日
21年 セネタースvs中部日本 8回戦
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
勝利打点 (セ)横沢七郎 1
猛打賞 (セ)大下弘 4 (中)岩本章 3
中部日本、泥沼の10連敗
昭和21年ペナントレースも佳境に入り、第18節初日の後楽園第1試合は白木義一郎と森井茂の先発で午後1時2分、桝球審の右手が上がりプレイボール。
セ軍は初回、二死後飯島が左前打、大下が一塁にヒット、白木も左前打で二死満塁とするが、一言多十は三振に倒れて無得点。
中部は初回、先頭の古川が二遊間にヒット、しかし二盗に失敗、杉浦清監督が三塁にヒット、しかし小鶴は遊ゴロ、加藤も三ゴロに倒れて無得点。
セ軍は2回表、先頭の長持が四球を選んで出塁、熊耳は捕邪飛に倒れるが、鈴木清一が四球を選んで一死一二塁、トップに返り横沢七郎が中前に先制タイムリーを放ち1-0、一走鈴木は三塁に進んで一死一三塁、清水喜一郎の左犠飛で2-0とする。
セ軍は3回表、一死後白木が三前にセーフティバントを決めて出塁、白木は投げない時は一番センターで出場するほどの脚力の持ち主、しかし一言の遊ゴロが「6-4-3」と渡ってダブルプレー。
セ軍は4回表、一死後熊耳が左前打、鈴木も中前打で続いて一死一二塁、トップに返り横沢が引っ張り三遊間を抜けるかという当りであったがショート杉浦が好捕、杉浦は三塁に送球して二走熊耳は三封、清水は左飛に倒れて無得点。
セ軍は5回表、一死後大下が右前打で出塁、二盗を試みるがキャッチャー藤原鉄之助の強肩に刺されて失敗、白木はニゴロに倒れて無得点。
セ軍は6回表、先頭の一言が三塁線にセーフティバントを決めて出塁、長持のニゴロでランナーが入れ替わり、熊耳の右中間タイムリー三塁打で3-0、センター古川がもたつく間に熊耳も生還して4-0、記録はワンヒットワンエラー、鈴木も右中間に三塁打を放って一死三塁、トップに返り横沢の中前タイムリーで5-0、清水は三振、飯島は四球を選んで二死一三塁、大下の右前タイムリーでこの回4点、6-0と大きくリードする。
セ軍は7回表、一死後一言、長持が連続四球、熊耳の三ゴロは「5-4-3」と転送され、一走長持は二封されるが一塁はセーフ、しかし二走一言が三塁をオーバーランしたのを見てファースト大沢清がサード小鶴に送球し一言はタッチアウト、「5-4-3-5」の併殺が記録された。この場合の守備の記録としては、小鶴の併殺数は1個だけカウントされると共に、補殺と刺殺が1個ずつ記録される。
中部は7回裏、二死後藤原が右中間に二塁打、岩本章が左越えに第4号ツーランを叩き込んで2-6とする。
セ軍は9回表、先頭の飯島が死球を受けて出塁、続く大下も死球、白木は中飛に倒れて一死一二塁、一言の中前タイムリーで7-2、一走大下は三塁に進んで一死一三塁、ここで一言が二盗、藤原からの送球に刺されるが、この隙をついて三走大下がホームイン、8-2とする。大下に本盗は記録されていない。
白木義一郎は8安打2四球4三振の完投で13勝目をあげる。
この試合までの本塁打ランキングは、セ軍の大下が9本でトップ、二位タイは中部の加藤正二と古川清蔵で5本、四位タイは中部の小鶴誠、岩本章、タ軍の本堂保次が4本。
中部はホームランバッターをずらりと並べる豪華打線であるが、この日のように打線のつながりが機能せず泥沼の10連敗、最下位に低迷している。
2021年2月3日水曜日
124年ぶり
今年の節分は2月2日。
2月2日が節分になるのは明治30年以来124年ぶりのこと、地球が太陽を一周するのがぴったり365日ではないので微調整するようです。
明治30年といえば中馬庚の名著「野球」が発行された年です。「野球」に関しては中馬が書いたと考えられますが、技術的なことは青井鉞夫が書いたのではないかと推測しています。
「増補」版には「増補者」として青井鉞夫の名前が明記されており、そもそも初版と増補版を比較すると技術面では同様な記述も多く認められることから、初版においても技術面は青井がサポートしていたと考えられるのです。
中馬は選手としては一流ではなくマネージャーとしての資質が高かった。青井は日本野球史上初の「名投手」であり、明治29年5月23日に日本が初めて国際試合で勝利した時の「五番・ピッチャー」であった。中馬が技術面については青井に任せていたと考えるのが妥当である。
中馬が「ベースボール」を「野球」と訳したのが明治27年秋のこと(君島一郎著「日本野球創世記」参照)、これをもって翌明治28年2月に「一高野球部史」が発行された。
令和2年3月6日、鹿児島県鴨池市民球場で「日本野球誕生125周年中馬庚先生記念試合」東京大学vs鹿児島大学戦が行われました。「野球」という「訳語」の起源が一高野球部史が発行された明治28年(1895年)とされているようで、令和2年(2010年)が125周年と認定されたようです。もちろん、「野球」の起源はホーレス・ウィルソンが日本に「ベースボール」を伝えたとされる「明治5年」とされるのが一般的です。
*中馬庚著「野球」
*当ブログが持っているのは「増補版」で、「増補者」青井鉞夫となっている。