2015年5月24日日曜日

17年 南海vs阪急 7回戦


7月24日 (金) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 2 0 0 0 2 南海 31勝26敗 0.544 神田武夫
0 0 1 0 0 0 1 2 X 4 阪急 28勝25敗2分 0.528 森弘太郎

勝利投手 森弘太郎 14勝8敗
敗戦投手 神田武夫 16勝12敗

二塁打 (急)山田、黒田
三塁打 (急)小田野

勝利打点 黒田健吾 4


新四番・小田野柏の三塁打で阪急が息を吹き返す

 南海は神田武夫、阪急は森弘太郎の両エースが先発。南海は好調だった川崎徳次が盲腸の手術のため緊急入院、再び神田の負担が増してきた。

 阪急の四番は帰還兵の小田野柏。小田野は元はピッチャーであるが強打を買われて外野手として起用されていくこととなる。昭和13年5月1日、川上哲治がプロ入り初打席で対戦したピッチャーこそが小田野柏であった。川上の初打席は「センターフライ」と誤って伝わっているが、スコアカードに残されている記録は「ライトフライ」である。

 南海は2回、先頭の岩本義行が三塁に内野安打、国久松一が中前打を放って無死一二塁、中野正雄が送りバントを決めて一死二三塁、柳鶴震の当りはサードライナー、二死二三塁から徳島忠彦は三振に倒れて無得点。

 阪急は3回、一死後森弘太郎が三塁に内野安打、トップに返りフランク山田伝がレフト線に二塁打を放って一死二三塁、上田藤夫が中前にタイムリーを放って1点を先制する。

 南海は6回、二死後岩本が四球を選んで出塁、続く国久の打席で岩本が二盗、三盗を決めて二死三塁、国久も四球から二盗を決めて二死二三塁、中野に代わる代打中村金治も四球を選んで二死満塁、ここで不振を極める南海打線の中で一人気を吐く柳鶴震が三塁線を破る逆転タイムリーを放って2-1とする。

 しかし調子の上がらない神田はこのリードを守れなかった。

 阪急は7回、先頭の小田野が右中間に三塁打、中継プレーでショート猪子利男が落球する間に小田野が生還して2-2の同点とする。

 阪急は8回、一死後山田が四球を選んで出塁、上田の三ゴロをサード柳が二塁に悪送球して一死一二塁、ここで黒田が左中間に二塁打を放って二者還り4-2と逆転に成功する。

 森弘太郎は7回から9回を三者凡退に抑え、5安打3四球4三振の完投で14勝目をあげる。


 この頃の神田について、「野球界」や読売新聞は「投げ過ぎによる疲労」と書いており胸の病については触れていない。一方、北原昇については、昭和17年11月15日発行「野球界」第22号に「北原は病気」という記述が認められる。


 劣勢だった阪急は新四番・小田野柏の三塁打で息を吹き返した。川上のプロ入り初打席が実際は「ライトフライ」であったにもかかわらず「センターフライ」と誤って伝わっている理由は、小田野の母校である岩手県立福岡高校野球部史「陣場台熱球録」に紹介されている「小田野柏」の項に「川上哲治がプロ入りして最初に対戦した投手が小田野柏であった。この時は、見事にセンターフライに打ち取っている。」と書かれているからであると推測される。それが「Wikipedia」等で事実誤認が伝播してしまったのでしょう。同部史は非常に内容が優れた著作である。小田野柏は長命であったので、同部史が平成17年に刊行された際、実際に小田野柏本人にインタビューして作成されたものと推測できる。但し、川上との初対決は数十年前のことであり記憶違いであった可能性は十分考えられる。




*昭和13年5月1日、川上哲治のプロ入り初打席は「ライトフライ」であった。対戦投手が小田野柏である。3人目のファースト内海五十雄は現巨人・内海哲也の祖父である。







 

0 件のコメント:

コメントを投稿