2014年6月25日水曜日

徳島忠彦の謎




 昭和16年10月25日、阪急vs南海12回戦は延長14回裏、南海が徳島忠彦の代打サヨナラタイムリーで勝利しました。ところが「日本プロ野球記録大全集」では徳島が出場していないことになっており、徳島の通算記録からもこの日のサヨナラ打が抜け落ちています。


 何故このようなことになったかと言うと、スコアカードの選手欄に「徳島忠彦」の名前が抜け落ちているからです。延長14回裏の南海の攻撃で柳鶴震に誰かが代打に出たことまでは書かれていますが、徳島忠彦のスタンプが押されていないため、「日本プロ野球記録大全集」のテーブルスコアでは柳鶴震がサヨナラタイムリーを放ったことになっています。翌日の読売新聞のテーブルスコアには代打の徳島忠彦がサヨナラ打を放って1打数1安打1打点が記録されており、公式記録でも訂正されていることから、当ブログの記述が間違っている訳ではありませんので念のため。


 徳島忠彦は9月27日の阪急9回戦でプロ入り初出場しており、この時はスコアカードにスタンプが押されていますので、急遽プロ入りしてスタンプ作製が間に合わなかった訳ではなく単純な押し忘れでしょう。何故このような単純ミスが生じたかの理由も、薄々分かってきました。「日本プロ野球記録大全集」の作成過程の裏話は、元パリーグ記録部長・千葉功さんから直接話を聞いています。いずれにせよ、今季通算5打数1安打2打点、翌昭和16年は31打数2安打0打点の記録を残してプロ野球を去ることとなる徳島忠彦が阪急12回戦の延長14回裏に殊勲の代打サヨナラタイムリーを放ったことは歴史的事実です。



 徳島忠彦は広島商業から全京城を経て今季南海に入団しています。広島商業時代は昭和8年センバツに出場していますがこの時はエースが鶴岡一人でした。徳島は外野の控えだったようで、2試合で2打数1安打の記録が残っています。全京城では昭和13年都市対抗にエースとして登場して決勝進出の立役者となりました。翌14年の都市対抗もエースとして出場し準決勝に進出して敗れました。全京城は翌15年の都市対抗では野村清(後に武史に改名、戦後プロ入りして毎日、高橋でエース級の活躍)をエースに据えて優勝します。昭和16年も都市対抗出場が決定していましたが、中国戦線の拡大や対米戦争も近づく時局の影響により都市対抗は中止となりました。徳島忠彦のプロ入りは、このような状況において野球を続ける道を模索した結果ではないでしょうか。



*柳鶴震に誰かが代打に出たことまでは分かりますが選手欄にスタンプが押されていません。







*翌日の読売新聞に掲載されているテーブルスコアでは「代打 徳島」が1打数1安打1打点を記録しています。







*昭和8年センバツ出場メンバー。徳島忠彦はレフトのレギュラーとして登録されていますが、甲子園では控えでした。ピッチャーは鶴岡一人、ライトに奈良友夫の名前が見られます。(「選抜高等学校野球大会50年史」より)





*昭和13年都市対抗決勝。全京城は控えの東を先発に起用し、先制されてすぐにエース徳島忠彦が登板しますが藤倉電線に逃げ切られました。(「都市対抗野球大会60年史」より)







 

2 件のコメント:

  1. はじめまして。本日、読者登録させていただきましたm(_ _)m名前は適当です(^_^;)よろしくお願いいたします。「ベースボールレコードブック1999」の、サヨナラ試合履歴では徳島忠彦がサヨナラ単打を打ったと記録されてました。柳鶴震選手は、「八百長してました」と告白したという話が有ります。シーズン75失策に関わってるかはわからなくても、不気味な感じがします。

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    1. 初めまして。柳鶴震は大和球士の著書によると当時南海の国久松一に次ぐ強肩とのことで、苅田久徳がキーストーンコンビの相棒に抜擢したという経緯がありますので、言われている程守備が下手であったとは考えにくいというのが当ブログの見解です。

      徳島忠彦のサヨナラ打は客観的事実から判断して史実であると考えています。いずれにせよ、歴史の研究というのは些細なきっかけから推理を働かせていく繰り返しであると考えます。今後とも気軽にお付き合いください。

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