2011年12月10日土曜日

14年 名古屋vs南海 6回戦


7月15日 (土) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 名古屋 14勝29敗3分 0.326 西沢道夫
1 0 0 0 0 0 0 0 X 1 南海    18勝24敗2分 0.429 政野岩夫


勝利投手 政野岩夫 7勝6敗
敗戦投手 西沢道夫 2勝5敗

政野岩夫、今季三度目の完封


 南海は1回裏、平井猪三郎、小林悟楼が連続四球を選んで無死一二塁、岡村俊昭が送って一死二三塁、鶴岡一人が中前にタイムリーを放って1点を先制する。結果的にこの一打が決勝タイムリーとなった。

 政野岩夫の下手投げに名古屋打線は翻弄されてヒットは初回大沢清の右前打と、9回加藤正二のショートへの内野安打の2本のみ。政野は2安打3四球1三振、3月28日の名古屋戦、5月27日のジャイアンツ戦に続いて今季三度目の完封で7勝目をあげる。

 西沢道夫も2回以降立ち直り、8回を完投して3安打3四球2三振であった。翌日の読売新聞によると「西沢は立ち上がりに乱調で投げるボールのいずれもが高目に浮き上がりストレートに平井、小林を歩かせる」とのことであったが「2回以降西沢が鮮やかに立ち直りを見せインシュートを利かせた速球の好投示す・・・」とのことである。西沢のピッチングについては以前にも触れましたが、長身から指も長かったと推測され、カットボール系の球を投げていたのではないでしょうか。インシュートはツーシームだった可能性もあるのではないでしょうか。綺麗な回転で投げると球が浮いてしまう欠点が克服された時こそ西沢の真価が発揮されるのでしょう。長身から低目の変化球で勝負するタイプで阪急の山沖をイメージすれば良いのかもしれません。


 山沖之彦がエースとして1977年のセンバツで準優勝した中村高校は部員が12人で「二十四の瞳」と呼ばれました。ベンチ入りの定員割れは1974年のセンバツで準優勝した池田高校の「さわやかイレブン」以来のことでしょう。因みに1974年のセンバツは木製バット時代の最後の大会でホームランは日大三高の豊田誠佑の1本だけでした。明治大学から中日に進んだ豊田は六大学、プロ野球を通じて「江川キラー」として鳴らしました。金属バットに代わった1977年のセンバツでは9本のホームランが出ています。天理高校の鈴木康友がバックスクリーンに叩き込んで長嶋に見染められて巨人入りしましたが巨人では活躍できず、巨人を出された西武時代に日本シリーズで巨人と対戦して勝負を決する一打を放って見返しました。甲子園のホームランはテレビで見ていましたがライナーでバックスクリーンにぶち込んだものです。この大会では銚子商業の尾上旭もホームランを打っています。尾上は篠塚の2年下、宇野の1年下となります。因みに篠塚は銚子市出身、宇野は八日市場出身、尾上は旭市出身で、当時の銚子商業はほとんどが地元出身者でした。地元出身者を日本一と言われる猛練習で斎藤監督が鍛え上げて黄金時代を作り上げた訳です。尾上は中央大学から中日に進み一年先輩の宇野とショートのポジションを争うという皮肉な運命となりました。宇野が高校三年の夏の甲子園に出た時は二年生の尾上は確かレフトを守っていたと記憶しています(間違っている可能性がありますのでご了承ください。)。


 因みに何度でも言いますが、宇野がショートフライをおでこにぶつけて宇野は守備が下手だと誤解している人が多い訳ですが、宇野が中日のスカウトの目に止まった理由は、3年夏の甲子園で見せた抜ければサヨナラとい言う場面での三遊間の当りをほぼノーステップで一塁に刺したプレーに拠るものです。宇野が1976年のドラフトで中日の三位指名を受けたのは宇野の守備力に目を付けた中日スカウトの慧眼に拠るものです。近藤がデビュー戦で巨人相手にノーヒットノーランをやった試合のビデオを持っていますが(もちろん自分で撮ったものです)、この試合での宇野のフィールディングとスローイングを今見ても、どこからどう見ても巧いとしか言いようがありません。





          *こちらはウーやんの中日75周年のサイン入りカード。


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