2011年9月1日木曜日

14年 名古屋vsイーグルス 2回戦

4月22日 (土) 堺大浜


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 名古屋    5勝10敗2分 0.333 繁里栄 中村三郎
0 0 0 0 4 0 0 1 X 5 イーグルス 6勝12敗1分 0.333 亀田忠



勝利投手 亀田忠 4勝5敗
敗戦投手 繁里栄 0勝1敗

二塁打 (イ)辻


辻信夫、4打数3安打1打点の活躍


 名古屋先発は今季3月26日のイーグルス1回戦で1回3分の1を投げただけの繁里栄が約1か月ぶりの登板。三番サードに大沢清が復帰、大沢欠場の間サードを守っていた中村三郎はファーストに入る。

 繁里は4回までイーグルス打線を2安打無得点に抑え、3回、4回は三者凡退と尻上がりに調子をあげてきたが5回に捕まった。

 イーグルスは5回、先頭の伏見五郎が四球で出塁、辻信夫が一塁に内野安打、翌日の読売新聞によるとピッチャー繁里の一塁ベースカバーが遅れたとのことで、久々の登板で試合勘が戻っていないようである。漆原進の投前送りバントを今度は繁里がエラー、犠打エラーとなって無死満塁、トップに返り三塁打王・寺内一隆の遊ゴロで三走伏見は本封、山田潔が左前に2点タイムリーを放って2-0、一走寺内も三塁に進み太田健一の四球で一死満塁、服部受弘のパスボールで寺内が生還して3-0、中河美芳が四球を選んで再度一死満塁、杉田屋守の中前タイムリーで4-0とする。

 名古屋は6回から繁里をレフトに回して何とファーストの中村三郎をマウンドに送る。

 イーグルスは8回、二死後伏見の三ゴロをサード大沢清がエラー、大沢はこの試合初回の寺内の三ゴロもエラーしておりまだ試合勘が戻っていないようで、今日はファーストに入れてサードは中村三郎で我慢するべきだったのではないか。二死一塁から辻がセンター右奥に二塁打を放って伏見が還り5-0とする。

 亀田忠は3安打6四球7三振、今季初完封で4勝目をあげる。


 打力に欠けると言われる山田潔が決勝の2点タイムリーを放ち、恐らく山田以上に打力に欠けると考えられる辻信夫が4打数3安打1打点、二塁打1本の活躍を見せた。

 名古屋は春先から投げまくってきて疲労困憊の松尾幸造と怪我の西沢道夫の姿がベンチに無く、投げる投手がいなくなってしまった。本来であれば登板経験のある大沢清が投げるところであろうが大沢も怪我から復帰したばかりとあって中村三郎がプロ入り初登板となった。


 実は中村三郎は諏訪蚕糸(現・長野県岡谷工業高等学校)時代は名投手であった。この辺の事情は長野県高校野球史を伝える貴重な文献「甲子園からの手紙 松商野球の源流」を参照させていただく。同著はタイトル通り松本商業(現・松商学園)野球部の貴重な記録を伝えている。昭和3年、松本商業は中島治康(勿論現在当ブログで活躍中の昨秋の三冠王・中島治康のことです。)をエースに擁して夏の甲子園で優勝した。中島が引き続き在籍していた松本商業を昭和4、5年と二年連続して破って甲子園に出場した諏訪蚕糸のエースピッチャーこそが中村三郎だったのである。特に昭和5年の甲子園では決勝に駒を進め、8回まで2対2の同点であったが9回表に広島商業に6点を許して敗れたものである(この決勝戦では中村三郎は登板していないようですが)。

 翌日の読売新聞によると「中村は・・・シュートボールとスローカーブを連投して・・・」と伝えている。

 当時の松本商業はプロの宝塚運動協会にも勝つ程の強豪であったので、その松本商業を二年連続破って甲子園に駒を進めたということは、如何に当時の諏訪蚕糸の実力が全国レベルであったかという事を物語っている。中村三郎の諏訪蚕糸時代の4年後輩が三浦敏一であり、この試合でも6回からファーストからマウンドに上がった中村の後のファーストに入っている。因みに三浦はキャッチャーのポジションをルーキー服部受弘に奪われてこのところあまり出番が無い。岡谷工業は近年はバレーボールの名門として有名で、プロ野球選手としては中村三郎と三浦敏一が双壁である。




               *中村三郎がプロ入り初登板。




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