2011年8月6日土曜日

14年 阪急vsセネタース 1回戦

4月1日 (土) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 阪急       5勝3敗 0.625 高橋敏
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 セネタース 5勝3敗 0.625 金子裕


勝利投手 高橋敏 2勝0敗
敗戦投手 金子裕 3勝1敗


高橋敏、二試合連続完封


 阪急は1、3、5、7、9回と奇数回は全て三者凡退。2回、先頭の山下好一が左翼線ヒットで出塁、黒田健吾の二ゴロは4-6-3と渡るが二塁はセーフで一塁はアウト、上田藤夫、伊東甚吉は連続三振に倒れる。4回は二死後山下好一が二打席連続ヒットを中前に放つが黒田は二ゴロ。6回、先頭の高橋敏が中前に痛打、しかし西村正夫は三邪飛、これは珍しくバント失敗かもしれない。いくらバントの名手と言っても100%成功はありえない。フランク山田伝三振、山下実は二ゴロに倒れる。

 阪急は8回、この回先頭の伊東が四球を選んで出塁、石井武夫が送って一死二塁、セネタース苅田久徳監督はここで先発金子裕から満を持してエース野口二郎を投入(既に野口はエースです。)、高橋の当りは二遊間へのゴロ、翌日の読売新聞によると「機敏苅田によって辛うじて球が中堅に抜けることだけは抑え切れた」とのことであるが内野安打となって一死一三塁、トップに返り好調西村正夫が左前に決勝タイムリーを放ち1-0とする。

 セネタースは2回、二死後金子裕が一二塁間に内野安打を放つが青木幸造は一邪飛。3回、先頭の柳鶴震が右前打を放つが後続無し。7回、一死後尾茂田叶が中前打を放ち二盗に成功して初めてスコアリングポジションにランナーを送る。しかし佐藤武夫の遊ゴロに尾茂田が飛び出し6-4-5と送られてタッチアウト、金子が四球を選んで二死一二塁とするが青木は中飛に倒れる。セネタースは1、4、5、6、8、9回と三者凡退。

 高橋敏は3安打1四球5三振で二試合連続完封。阪急はこれで高橋、荒木、高橋と三試合連続シャットアウト勝ち。

 両軍ノーエラーで四球は1個ずつ。エラーと四球が多いと何かと批判される当時の職業野球ではありますが、2011年の試合よりも引き締まったこういう試合もあるのです。試合時間は1時間12分でした。悔しかったらこういう試合もしてみなさい。ちんたら攻守交代をしているようでは出来る訳ないか。


 攻守交代が全力疾走と言えば土佐高校。土佐高からプロに行ったのは慶應義塾大学経由の大橋勲だけで、その大橋も巨人では森、大洋では伊藤に阻まれてレギュラーにはなれませんでした。岡村甫(現・高知工科大学理事長)は東京大学野球部に進み神宮で通算17勝、これは東大野球部史上最多勝記録です。野球選手としてよりも学者として有名です。慶應三連覇の黄金時代のエース萩野友康はあまたの誘いを蹴ってプロには行かず、新日鐵八幡に進まれました。甲子園でサイクルヒットを達成して慶應義塾大学に進んだ玉川寿は確か神宮で三回ベストナインを獲りましたがプロにはいかず日本石油(現社名はややこしくてよく分かりません。)に進んで社会人野球でも長く活躍しました。私と同学年で、硬式の連中は「たまちゃ~ん」と呼んでいました。土佐高校のカルチャーはプロには向かないのでしょう(アマチュア選手の場合は基本的に敬称を用いていますが選手時代の記述の場合は敬称略とさせていただいております。)。

 荻野氏の前のエース藤原真(後にカネボウから産経アトムズ等)の時代は荻野氏の時代以上の六大学全盛期でした。市川の実家のとなりの家のお兄さんが慶應高校に受かり、小学校時代に早慶戦に連れて行ってもらいましたが(当然三塁側、私も近所では有名な野球少年でした。逆のとなりのおじさんには都市対抗に連れて行ってもらいました。)、藤原の時代の全盛期で満員で入れませんでした。藤原真は兵庫県立西脇高校の出身。駅伝の王者・西脇工業高校は西脇高校の工業過程が分離独立したそうです。駅伝には出られませんが、来週は夏休みですので、夏休み中に50キロ走ることを目標にしています。




          *高橋敏は二試合連続完封。







0 件のコメント:

コメントを投稿