2010年3月23日火曜日

前史

 当ブログでは、昭和12年以降の職業野球公式戦の試合経過をアップしていく予定ですが、ここで昭和11年以前の野球界についておさらいをしておきます。
 日本への野球伝来は明治5年説、明治6年説がありますが、ここでは君島一郎氏(平成21年野球殿堂)著「日本野球創世記」に記載されているとおり、明治5年お雇い外国人ホーレス・ウィルソン氏により伝えられたとしておきましょう。いずれにしろアメリカから招聘した複数のお雇い外国人により伝えられ、またたく間に日本全国に伝播していったものと考えられます。新橋アスレティック倶楽部の活動
があり、やがて学校教育の場で野球道として発展していき、旧制一高全盛期を迎え中馬庚がベースボールを野球と訳し、青井鉞男、福島金馬の活躍、そして「球聖」守山恒太郎、中野老鉄山が登場します。この辺りから職業野球創設に関わる人物の名がでてきます。
 1903(明治33)年、第1回早慶戦が開催され、河野安通志、桜井弥一郎 が投げ合い、翌年相次いで一高を破り早慶時代が到来します。加熱する応援合戦のため1906年に早慶戦は中止となり、1911年には朝日新聞が野球害毒論を唱えます。しかし1915年、一転朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会を開催、販路の拡大を狙います。1924年選抜大会開催、1925年早慶戦復活、1926年昭和元年を迎えます。
 こうしたなか1920(大正9)年、河野安通志、押川清、橋戸頑鉄(現在も都市対抗に橋戸賞の名を残す)により我が国職業野球団第1号となる日本運動協会(通称芝浦協会)が誕生します。出資者に押川、橋戸、河野のほか、中野老鉄山等、天狗倶楽部のメンバーが絡んでいる点は見逃すことができません(天狗倶楽部の主宰は押川清の兄押川春浪)。日本運動協会の精神は崇高なものであり、生涯プロ野球を見なかった飛田穂洲ですら存在を認めていたと云います。日本運動協会は、職業野球団第2号天勝野球団、2球団よりも強かったと考えられる大毎野球団、各地の倶楽部チームとの対戦等の活動を続けますが、関東大震災により芝浦球場が撤収されたことにより解散となり宝塚運動協会に引き継がれ、昭和4年(ここより昭和に統一、西暦は25をプラス)活動を休止します。
 昭和6年、読売新聞がルー・ゲーリッグ、レフティ・グローブ、ミッキー・カクレーン、フランキー・フリッシュ、アル・シモンズ等を招聘し、伊達正男等全日本軍と対戦します。伊達によると、昭和9年の全日本軍より強かったということで、若林忠志、宮武三郎、久慈次郎、山下実、松木謙治郎、三原脩、横沢三郎、水原茂、苅田久徳、佐藤茂美、桝嘉一、田部武雄等が名を連ねています。
 昭和9年、読売新聞がベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、チャーリー・ゲーリンジャー、レフティ・ゴーメッツ等を招聘し、全日本軍と対戦、草薙で澤村栄治の快投が生まれます。この時の全日本軍を母体に東京ジャイアンツが誕生、昭和10年第1回アメリカ遠征を敢行します。
 昭和11年、ジャイアンツは第2回アメリカ遠征に旅立ちます。この間、続々と職業野球チームが誕生、タイガース、名古屋、セネタース、阪急、大東京、金鯱により4月に甲子園球場で大阪大会、5月に鳴海球場及び宝塚球場で名古屋大会が行われます(ジャイアンツはアメリカ遠征のため不参加)。ジャイアンツ帰国後、7月に第1回全日本野球選手権大会として、戸塚球場で東京大会、甲子園球場で大阪大会、山本球場で名古屋大会の各トーナメント試合が行われます。10月~11月にかけて、第2回全日本野球選手権大会として、6つのトーナメント戦とリーグ戦が行われ、ジャイアンツとタイガースが勝ち点2.5で並び、洲崎球場で年度優勝決定試合が行われることとなります。これが世に言う洲崎決戦であり、澤村が三連投してジャイアンツがタイガースを2勝1敗で退け、昭和11年度チャンピオンチームの座に輝くこととなりました。
 このように、昭和11年の公式戦は小さな大会の連続であり、昭和12年こそがこれまで日本で行われたことのなかった本格的な長期リーグ戦の開始年となるわけです。


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